錫杖寺の歴史

錫杖寺略年譜

天平十二年(740)聖武天皇、霊告によって、御后の病平癒祈祈祷のため、僧・行基を武州川口村に遣わす。(『慈林略縁起』) このおり、僧・行基によって錫杖寺の現在地に草庵が結ばれたと伝えられる。
嘉禄元年(1225)京都・泉涌寺第六世・願行上人(憲靜)、鎌倉にあって東国を教化す。(『律苑僧宝伝』) 願行上人・僧・行基ゆかりの地(現在地)に草庵を結び、大念仏を結集す。
永仁三年(1295)四月七日、願行上人示寂。一説に建治二年(1276)八月二十八日。
文和三年(1354)
(北朝歴)
板碑造立さる。(当山所蔵)
長禄元年(1457)太田道灌(持資入道)江戸城を築く。
寛正元年(1460)法印宥鎭、法脈を継ぎ、堂宇を建立して当山中興す。太田道灌の信施によると推察される。法印宥鎭、周辺地域に教勢を張る。当山が(常法)談林となったのはこのおりのことか。
文明年中(1469〜86)法印宥鎭、僧・圓勸とともに太田道灌の戦勝を祈願す。
文明十八年(1486)五月二十一日、法印宥鎭示寂す。
延徳三年(1491)印融、しばらく錫杖寺に止宿し、『諸尊表白抄』を著す。(『諸尊表白抄』奥書、『本朝高僧伝』)大いに宗風宣揚に務め、談林を起こす。(俗に関東十一談林という)
明応四年(1495)北条早雲、小田原城に入る。
永正十六年(1519)八月十六日、印融示寂。八十五歳。
天正十八年(1590)後北条氏滅ぶ。徳川家康、江戸へ入部す。「こかわ口」(川口町)は天領となる。宇田川助右衛門尉出雲、川口の名主となる。
慶長八年(1603)江戸幕府を開く。
元和元年(1615)真言宗諸法度が発布され、当山は醍醐三法院と本末関係を確立。真言宗関東七か寺の一つに数えられる。当山、醍醐寺の院室を兼帯する。
元和二年(1616)徳川家康歿。
元和八年(1622)十月十二日、二代将軍秀忠、日光参詣の途中当山に休息す。
元和九年(1623)四月十三日、三代将軍家光、日光参詣(初)のおり当山を休息所と定む。いらい吉例となる。
寛永三年(1626)家光より「金子・材木」を拝領し、御成御門を建立す。(『由緒書上』)家光御休息の仮御殿建立はこのおりのことか。
寛永十二年(1635)参勤交替制度の確立。寺社奉行を置く。
寛永十七年(1640)寺請制度確立す。
寛永十八年(1641)九月、宇田川氏の信施により梵鐘を鋳造(『梵鐘銘』)し、鐘楼堂建立す。鋳造は長瀬治兵衛守久による。
寛永十九年(1642)家綱、疱瘡にかかる。命により当山、平癒のための祈祷を修す。
寛永年中(1624〜43)寺運隆昌す。末寺、又末寺を含め五十三か寺を有す。庶民の間に寺社詣でが盛んになる。当山への参詣人あとを絶たず。
延宝八年(1680)七月、綱吉、五代将軍となる。
延宝九年(1681)正月より由緒寺院として年頭独礼の格式を与えられる。九月、天和と改む。
享保元年(1716)吉宗、八代将軍となり、「大改革」を行う。享保年中、大飢饉。
元文四年(1739)二月、吉宗鷹狩り。当山御膳所となる。以後しばしば当山を訪れる。(『有徳院殿御実紀』)
寛延四年(1751)六月、幕府より「納経拝礼」を命ぜらる。(『由緒書上』)
文化十三年(1816)三月八日、『遊歴雑記』の著者 津田十万庵、当山を訪れ、「川口の駅錫杖寺」を記す。
天保四年(1833)『錫杖寺由緒書上』を提出する。
天保九年(1838)災禍に罹り、当山堂宇焼失す。諸尊像は無事。
天保十二年(1841)本堂はじめ諸堂宇再建。
弘化二年(1845)三月二十日、本尊および天満宮社開張。(『武江年表』)
嘉永五年(1852)八月、川口町大火。当山諸堂宇焼失す。諸尊像は無事。
安政二年(1855)十三代将軍家定の命により品川御殿山の館を移し、本堂、書院等再建す。十月、安政大地震。
慶応四年(1868)
(明治元年)
大政奉還。徳川幕府崩壊。 明治新政府樹立。
神仏分離令、廃仏毀釈運動広がる。
明治五年(1872)埼玉県足立郡四十九か寺の触頭となる。
明治九年(1876)江戸城大奥最後の老女・瀧山歿し、当山に葬らる。
明治十八年(1885)七月、地蔵堂再建。
明治十九年(1886)一月十六日、智積院(京都)末となる。(『智積院加末張』)
明治四十一年(1908)御成門、永瀬氏の信施により宇都宮城より移築す。
大正五年(1916)鐘楼堂再建す。
昭和四十八年(1973)四月、地蔵堂、現在地に移設。
昭和五十年(1975)十月、本堂、客殿落慶。御成門修復。
昭和五十八年(1983)四月、本坊、書院、庫裡等落慶。
昭和五十九年(1984)梵鐘を新鋳。鐘楼を移築。寺容を整え中興す。

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草創〜江戸期前

錫杖寺は寶珠山地蔵院と号し、天平十二年(740)の春、行基菩薩によって草庵が結ばれたのを濫觴とすると伝えられています。
行基菩薩が聖武天皇の命によって、光明皇后の病平癒祈願のために当地を訪ねた折のことといわれています。今から千二百五十余年も昔のことで、史実としての確証に乏しく、錫杖寺草創の時代はすでに伝説の世界と交錯しているといえましょう。

嘉禄年中(1225〜6)は鎌倉にあって広く東国の教化にあたっていた願行上人(憲靜)は、行基菩薩ゆかりの地に再び草庵を結び大念仏を結集しました。
願行上人は顕密浄律の諸宗に通じ、特に三宝院流の事相に達した高僧でこの法系を顕行方と称します。願行上人は源頼朝の妻・政子や執権・北条時宗の帰依も厚く、当時荒廃の極みにあった大山寺(大山不動、神奈川県)も中興し、永仁三年(1295)四月七日に遷化し、宗燈律師の号を賜りました。
この事から錫杖寺では、行基菩薩を"開山の祖"、願行上人を"中興の祖"と申し上げております。

寛正元年(1460)錫杖寺は宥鎮大和尚によって堂宇が建立されました。これは長禄元年(1457)江戸城を築いて武威を誇った大田道灌(持資入道)の信施によったといわれています。錫杖寺は江戸城の鬼門にあたっており、江戸城守護の意味もあったと思われます。一説によると足利八代将軍・義政が、満海法師の勧めによって錫杖寺の七堂伽藍を建立し、宥鎮大和尚を山主としたともいわれています。
満海法師は、四代将軍・義持に仕えた武士で或る夜、夢中に霊告を得て出家し、三井寺(滋賀県)、高野山(和歌山県)などで修行した後、諸国を巡錫して布教しました。
満海法師は、義政の厚い尊崇が寄せられた高僧で、羽黒山(山形県)を経て終焉の地となる米沢に至る途中に錫杖寺に止宿したとも伝えられており・この折に錫杖寺の七堂伽藍建立を義政に勧めたとも考えられます。
宥鎮大和尚は錫杖寺を拠点として強力な教線を張り、吉祥院(川口市)をはじめ七か寺(都内)を中興、開創しています。
錫杖寺が談林として多くの学僧を擁し、事相・教相の学問所となったのもこの頃でしょう。
文明十八年(1486)五月二十一日、宥鎮大和尚が遷化し、宥余大和尚が法嗣となりました。
『〜当寺ハ古ヘ願行上人ノ結ビシ庵室ナリシヲ、僧宥鎮其法脈ヲ継デ寛正元年一寺トセリト云。故ニ宥鎮ヲ開山トス。相伝フ、文明十八年五月二十一日白日天ニ上り去シト。上天ハ則入寂ノコトニシテ、尊崇ノ餘詞ヲ霊異ニセシルナルベシ〜』(新編武蔵風土記稿)
中世における真言宗(新義)の発展は、中世談林(古談林)の力に寄ったといわれ、錫杖寺もその一翼を担っていたわけです。
延徳三年(1491)春頃から、弘法大師の再来と尊崇され、密教教学の興隆に尽力した印融大和尚が錫杖寺に止宿して薯述に専念しました。
『諸尊表日抄』の奥書に「延徳三年辛亥四月一日、於武州足立郡河口錫杖寺、依求法弟子之所望抄之  沙門印融」と記されています。また『印融法師の研究』(伊藤宏見薯)の「釈論各日私抄」の著述でも「錫杖寺での弟子らの要望に応じたものではないかと思う」と述べています。
印融大和尚は関東各地の真言宗寺院の復興に努め、永正十六年(1519)八月十六日、八十五歳で遷化しました。

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江戸期

天正十八年(1590)、徳川家康が江戸に入部し、慶長八年(1603)には江戸幕府が開府しました。錫杖寺周辺は天領となり、名主となった宇田川氏は大田道灌の旧臣で、以来幕末まで当山と深い関連を持つようになります。
元和元年(1615)真言宗諸法度が発布され、全国各地の本末関係が確立されます。錫杖寺は寛正元年(1460)以来、醍醐三宝院の直末寺でしたが、醍醐寺の院室を兼帯し、真言宗関東七ヶ寺に数えられるのはこの頃からの事でしょう。
元和二年(1616)徳川家康が歿し、七回忌にあたる元和八年(1622)十月二十二日、二代将軍・秀忠が日光参拝の折、錫杖寺を休憩所と定めて以来これが吉例となり徳川家と深い関わりを持つことになります。『新編武蔵風土記稿』に「元和年中台徳院殿(秀忠)日光御参拝ノ時、御小休トシテ成ラセラレシ後ハ、旧例トナリテ御参拝ノ度御小休所トナレリ」と記されています。
寛永三年(1626)錫杖寺は三代将軍・家光より「金子ならびに木材」を拝領し御成門を建立しました。この御成門は将軍家が日光参拝の折、当山に立ち寄られた時にのみ開門される慣わしとなりました。また将軍家が休息し、昼食をとられる御座所(御殿)が建立されたのもこの折のことでしょう。『大猷院殿(家光)御実紀』によると、家光が三代将軍となって初めて日光参拝したのは、寛永五年(1628)四月のことで錫杖寺には二十二日に立ち寄っています。
寛永十七年(1640)幕府によって寺請制度が公布されます。切支丹禁圧にともなう宗旨人別改めが重要な目的でしたが、この制度によって壇越関係が確立されました。寺請制度が近世仏教の庶民への布教に大きな貢献を果たしたといっても過言ではありません。
寛永十八年(1641)九月、宇田川四郎右衛門によって銅鐘が寄進されました。長瀬守久の鋳造によるもので、美術的にもまた川口鋳物史上でも貴重なもので、埼玉県有形文化財に指定されています。
慶安元年(1648)九月十七日、錫杖寺は御朱印二十石を拝領しました。『武蔵国足立郡川口村錫杖寺領同村之内弐拾石事、新寄附之訖、全可収納ナラビニ寺中竹木諸役等免除、永不可有相違者也』というもので家光の花押が記されています。錫杖寺にはこの家光の朱印状はじめ、歴代将軍による8通の朱印状が所蔵されています。
錫杖寺の寺運が隆昌し、末寺、又末寺を含め五十三ヶ寺を擁するのもこの頃のことで、七堂伽藍を備えた境内の学寮には、諸国から参集した多くの学僧たちが、勉学に励んでいました。また将軍家の帰依厚い祈願所としても知られ、将軍家の諸々の祈祷を修する命が下されています。
延宝八年(1680)五代将軍・綱吉によって、錫杖寺の歴代住職は年頭にあたって将軍に「独礼」する栄誉が与えられました。その折「五本入扇子箱」を献上する慣しであったと「由緒書上」に記されています。
元禄年中(1688〜1703)に入ると庶民の生活も安定し、物見遊山をかねた寺社詣でが盛んになります。錫杖寺の御本尊・地蔵菩薩や境内の天神社、不動堂、観音堂などに参詣人々があとを絶たなかったといわれるのもこの頃以降のことでしょう。
享保元年(1716)紀州・徳川吉宗が第八代の将軍位を継承しました。吉宗は家康を手本とすることを信条とし、武芸、学問、特に実学の奨励、新田開発の推進などを行い幕府中興の英主と呼ばれています。吉宗は元禄以降武士が柔弱になり、遊惰の気が漲っている実状をみて、率先してこれを打破しようとしました。流鏑馬を復興したり、馬上の太刀打や槍をもっての試合なども奨励しましたが、特に好んだのは鷹狩りでした。これによって旗本・御家人を戦場にあるがごとく訓練しようとしたわけです。
元文四年(1739)錫杖寺はその鷹狩りの折「御膳所」に定められました。「由緒書上」によると『〜御膳所被仰候年月、如左』として元文四年に二度、寛保元年(1741)に二度、の期日が記されています。
寛延四年(1751)六月二日、吉宗が歿し、錫杖寺は九代将軍・家重の命により追悼供養を行っています。歴代将軍が歿する度毎に、錫杖寺では追悼供養が命ぜられていました。

錫杖寺は色々な紀行文、随筆のなかに登場しますが、津田十万庵の『遊歴雑記』の「川口の駅錫杖寺」と題する一文が、江戸時代における錫杖寺の山容を的確に表現しているといえましょう。
津田十万庵が錫杖寺を訪れたのは文化十三年(1816)三月八日のことです。この日はことさら長閑な一日であったらしく「その路すじ花に愛鳥になぐさみ、路傍の草花樹々の芽吹面白く、見るもの一々みな感あり賞あり」との道中を経て錫杖寺に至ったと記しています。
「同宿表町錫杖寺は駅の上西側にあり、通用門は右に、御成門は左にふたつともならべて建て常に閉せり、是日光御社参の節、此寺御膳所になるが故なり、本堂は東に向い観音堂は北向に建ぬ、本堂の前に撞鐘あり、むかし宇田川氏世襲の砌寄進せしと見ゆ、宇田川は大田道灌の臣たりし、今も同村に後裔ありとなん、撞鐘の銘略して写し置左のごとし "寛永十八年辛巳九月 施主宇田川宗慶 於舟 於甚 於竹 小上郎 武州足立郡川口村錫杖寺道場 宇田川宗寿" とあり、此寺境内の外屋敷広く、墓所は寺内を出東南の方一町ばかり、代々の寺僧 宇田川の墳墓こゝにあり、慶長いらいの古墳若干見えしかと管々しきまゝ書留ず、就中路傍に土筆芽のは類夥しく芸て摘度も此日風起りて寒し、未の半刻も過ぬらんと思へば、吾帰路の遠きを厭て立出ぬ、然るに境内の高樹の頂上に、鶴の巣喰て悠然と遊べるも又めずらしく、或は遠近の風景見洩さじと、己々が舎を急ぬ、是より西の駅鳩ヶ谷へ壱里ありとかや 」

天保九年(1838)錫杖寺は災禍に罹り諸堂宇を焼失しました。天保十二年、壇信徒諸家の信施によって再興されますが、嘉永五年(1852)八月、川口町の大火によって再び灰燼と帰してしまいました。幕府開創以来、徳川家と深い関わりをもつ錫杖寺の焼失を惜しんだ十三代将軍・家定は、品川御殿山の館を移し錫杖寺の再興を命じました。

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明治以降〜

慶応四年(1868)二百六十余年に亘った江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立されると神仏分離令が布告され、廃仏毀釈運動が広まります。旧弊を打破し、神武天皇創業に復古するという「王政復古」による神祗崇拝の風潮によるものですが、この運動により多くの寺院や仏像が破壊されました。境内地はすべて官有地とされ、全国の各寺院は一様に荒廃への道を辿ります。
明治五年(1872)錫杖寺は埼玉県足立郡の蝕頭として、仏法興隆の運動を展開することになりました。『右ハ、第廿三区寺院蝕頭申付別紙之通御達相成候付テハ諸事差配ヲ受ケ不都合筋無之様可心得此段相達候事 申七月 埼玉県庁 朱判』 三十二世・胎淨大和尚の代のことで、極端な世情不安の時代意にあっての労苦は、まさに筆舌に尽くせぬものがあったでしょう。錫杖寺の地蔵堂は、江戸時代には氷川神社(現在の川口神社)の傍に移されていましたが、再び現在の境内に移し再建されました。
明治十九年(1886)錫杖寺は智積院と本末関係を結びます。嘉永六年(1853)に刊行された「江戸誌」には、錫杖寺は智積院末と記されていて、おそらくこの頃から智積院とのつながりがあったのかもしれません。
明治四十一年(1908)御成門が再建されました。永瀬氏の 信施によるもので、戸田忠寛(七万七千石)の居城であった宇都宮城の資材を移し建立したもので、柱に残された傷は戊辰の役の斗いの名残でしょう。
大正五年(1916)岩田氏の寄進によって鐘楼堂が建立されました。
昭和初期は軍閥のみが跋扈し、社会全般が低迷した時代です。錫杖寺の寺運もまた例外ではありません。
ここから錫杖寺の現代史が始まったわけです。

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錫杖寺歴代大和尚

歴 世大 和 尚 名歴 世大 和 尚 名歴 世大 和 尚 名
開 山宥鎭大和尚十四世榮賢大和尚廿七世秀範大和尚
二 世宥全大和尚十五世杲海大和尚廿八世淨性大和尚
三 世了圓大和尚十六世乘雅大和尚廿九世淨圓大和尚
四 世宥譽大和尚十七世乘俊大和尚卅 世淨典大和尚
五 世宥鑁大和尚十八世朝海大和尚卅一世淨潮大和尚
六 世宥照大和尚十九世宥俊大和尚卅二世胎淨大和尚
七 世祐海大和尚廿 世宥純大和尚卅三世淺入大和尚
八 世尊圓大和尚廿一世寛延大和尚卅四世賢盛大和尚
九 世宥慶大和尚廿二世賢調大和尚卅五世政雄大和尚
十 世尊賢大和尚廿三世陳翁大和尚卅六世俊則大和尚
十一世阿光大和尚廿四世賢瑜大和尚
十二世明範大和尚廿五世覺盛大和尚
十三世觀龍大和尚廿六世圓快大和尚

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