康秀街道~こうしゅうかいどう~  駒井僧侶による執筆です。月々移り行くお寺のお話をお楽しみ下さい。

3人寄らずも文殊の智慧を・・・

 10月も終わりに近づきますと昼夜の寒暖差も大きくなり、寒さを感じることも多くなりました。 上旬では衣替えを拒否するような暑さの日もあり、私たちの法衣もすぐに衣替えとはならず、制服姿の学生を見てもまだまだ夏服の学生も多くいました。 残念ながら、温暖化と言われている影響があるのかもしれません。
 最低気温が8℃を下回ると紅葉が進むようですが、錫杖寺は銀杏があるので落葉で滑らないように掃除をしなければならず、美味しくも臭いの強烈な銀杏の実も落ちるので少々大変な時期が続きそうです。
 今月は錫杖寺の年中行事の1つ「写仏会」が行われました。幸いにして緊急事態宣言も明け通常通りの開催としましたが、それでも感染対策は徹底して行いました。
 今回は「文殊菩薩」を写仏していただきましたが、真言宗の曼陀羅に描かれる「文殊菩」薩を写仏してもらいましたので少々難しかったかもしれません。 今回の「文殊菩薩」に限ったことではないのですが、特に「写仏」は線の細さを均等に描くためには少々技術や慣れが必要なので時間がかかります。 錫杖寺の「写仏」では、作法の時間などもありますので、集中して描ける時間は1時間くらいとなってしまうため、時間も足りず申し訳ないと思うのですが、それでも多くの方が短い時間で描いてくれました。
 さて、せっかく機会なので、今回は写仏で描いた「文殊菩薩」という仏さまについて少し考えていきたいと思います。 一般的に「文殊菩薩」というと「頭の良い仏さま」というイメージを持つ人がほとんどでしょう。 これは「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがありますので、そう思うことは必然でしょう。 ちなみに「特に優れていなくとも3人集まれば優れた知恵や意見が生まれる」という意味ですが、この「優れた知恵や意見」を「文殊菩薩」としていることからも「頭の良い仏さま」ということは理解できます。
 まず「文殊菩薩」のお話をするときは、必ず切れない存在として「維摩居士」の名前が挙がります。 この「維摩居士」とは『維摩経』に説かれる人物に関する経典で、この「維摩居士」は仏さまでなければお釈迦さまの弟子でもなく在家の人間です。 もう少し詳しくお話しすると、長者(大富豪)でありながらも惜しみなく喜捨(布施行)を行い、出家をしたお釈迦さまの弟子ではなく、出家をしない在家の弟子になり、とても仏教を深く理解している人です。
 この「維摩居士」に関しては『維摩経』に説かれていますが、お見舞いに関するお話が有名です。 これは「維摩居士」が病気であるとの話を聞いたお釈迦さまが、弟子たちに見舞いに行くようにお願いしますが、有名なお釈迦さまの弟子である舎利子(シャーリプトラ)や目連(モッガラーナ)や摩訶迦葉(マハーカッサパ)や須菩提(スブーティ)ですら辞退します。 なぜならば、過去に維摩居士からことごとく論破されるという苦い経験があったからなのです。 そこで、智慧第一である文殊菩薩に声がかかり見舞いに行くことになり、2人の問答によって仏の教えが説かれていきます。 この問答が非常にレベルの高いものとして説かれているために「文殊菩薩」も「維摩居士」も際立って頭の良い存在ということを読み解くことが可能です。
 ちなみに「文殊菩薩」に関しても当然ながら経典に説かれていて『仏説文殊師利般涅槃経』などが有名ですが、どちらかといえば非常に神通力を持った偉大な存在として説かれていますが、智慧第一という印象はあまり受けることはありません。 しかしながら、この神通力をもって多くの衆生を導くことから偉大な仏さまであり、多くの智慧を兼ね備えたからこその存在と考えることもできるかもしれません。
 頭が良いということは昔から誉め言葉の1つとして用いられ、小学生では頭が良いことに憧れることもあります。 しかし、頭が良いだけでは人の善し悪しを決めることはできず、お釈迦さまの弟子たちを見てもいろいろな弟子がいます。 先にお話しした舎利子(シャーリプトラ)も智慧第一と呼ばれ、目連(モッガラーナ)は神通第一と呼ばれそれぞれ得意なものがあります。
 大切なことは、仏さまでなく人である我々は完璧な存在ではないということをよく認識して、さらにはよく自分と向き合うことでどういう人間かを認識していくことが大切なのです。 他人と比べても結局は必ず優劣がついてしまうもので、これは『維摩経』に説かれる「不二の法門」という簡単に言えば対極として存在するもの(善と悪など)と同じような考えになってしまいます。 逆に言えば、この対極がそれぞれ存在することによってもろもろの事象は成り立つわけですから、当然ながら他人と比べて優劣がつくのです。 そしてよい方向で必要であったりします。
 大切なのは優劣にとらわれて執着しないことです。本質は何かを見極められれば多様性という言葉も身近にわかりやすく感じることができるでしょう。

合掌

(2021.10)
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来世では〇〇になります!

 読者のみなさまのおかげさまを持ちまして、まだ「康秀街道」を続けていくことができています。 私にとっては月に1回の一方的なお話ですが、それでも仏教のことや日常のことなど、何かを伝えたいという気持ちは10年以上変わることはありません。 これからも少しでも仏教に興味を持ってもらえるように精進していきますので応援よろしくお願いします。
 この9月は昔から言われているように「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉の通り、青空は秋の雲になり、不自然な暑さが続くことなく秋を感じることができました。 イメージとして、秋という季節は寂しいなどが挙げられますが、まだ暑さの残る彼岸の頃は寂しい気持ちになることは少ないと思います。
 ただ、この先11月くらいになりますと、夜が一層寒くなることにより錫杖寺は多くの落葉に見舞われることになりますが、このような光景を目にするとそう感じることもあるかもしれません。 ただし、このような気持ちになることができることも四季のある日本ならではのことでしょう。
 今月は9月ということでお彼岸がありましたので、錫杖寺では「秋彼岸法要」を行いました。 9月になり、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染者が異常な減少となりましたが、ご案内したのが最も感染者が多かったころの基準でしたので、申し訳ないことに昨年および春の彼岸と同じように檀信徒の代表といたしまして錫杖寺の総代・世話人・ご詠歌講員のみ本堂の中へと上堂いただき、共にご供養いただきました。
 本来ならば少しでも多くの方に上堂いただきご供養いただきたいところですが、やはり感染対策を徹底は大切なことで、錫杖寺から感染者を出さないためにも仕方がない判断となり、とても心苦しいことでしたが、お願いせざるをえませんでした。 それでも多くの檀信徒にご理解いただき、分散での参拝をはじめ、お塔婆を建ててご先祖さまの供養をしてくれましたことは、大変ありがたく尊いご供養となったことでしょう。

 さて、9月には無事にパラリンピックも終わりました。 心配が絶えない新型コロナウイルス(COVID-19)に関しても、異常なほど感染者数が減少となり、喜ばしくも嵐の前の静けさなのではないかと不安も同時に覚えます。
 今月個人的に気になったこととしては『三省堂国語辞典』の改定が行われ、新たに3,500の言葉が追加されるとのことでした。 確かに、時代に合わせた言葉の追加とは言え、普段耳にすることのない言葉に関しては、非常に理解に苦しむ言葉も存在しますので歓迎です。
 ただ、とても気になった言葉として「親ガチャ」などという言葉まで存在するようになりました。 これは子どもの立場から「親は自分で選べない」ことや「生まれた境遇の善し悪し」などをカプセルトイに準えた言葉で、このような言葉が存在し始めたことには驚きました。
 もちろん「ヤングケアラー」(=家族の介護などを担う18歳未満の子ども)の立場も痛いほど分かりますので簡単にここで「親ガチャ」という言葉について考察するつもりはありません。 しかし「生」(=生まれる)というテーマに関しては、仏教学的にも大変重要なことですので、今回は仏教学的にお話したいと思います。
 お釈迦さまは、世の中は「一切皆苦」であると説き、その中でも主となる苦について「四苦」(生・老・病・死)と説いています。 よく間違って認識されやすいのは「生」に関することで、これは「生きる苦しみ」ではなく「生まれる苦しみ」のことを表しています。
 では「生まれる苦しみ」とはどのようなものなのか考えてみましょう。 これは一般の想像としては「生まれるときの痛み」を想像すると思います。 母親は大変な苦労の下で出産を行いますが、同時に生まれてくる子どもも、記憶はないだけで大きな痛みを伴って生まれてくることから「生まれる苦しみ」を表しているようです。 ただ、私が考える「生まれる苦しみ」とは、痛みという観点ではなく「環境」という観点になります。 先に述べたように「親ガチャ」という言葉に通じるものになります。
 しかし、この「生まれる苦しみ」とはお釈迦さまが説いているようにすべての人間に共通するものであると考えます。 例えば、どれほど豊かな環境に生まれることができても、決してそれを受け入れることはできないからです。 なぜなら、人間として生を受けた以上は必ずそこには「欲」が存在するからです。 つまり、餓鬼までとは言わずとも、必ず人には「欲」が存在しますので、どのような環境で生を受けても必ず満足できないのです。
 すると、先ほどの「生きる苦しみ」というのは、このような考え方から派生します。 そうなると「生きる苦しみ」をいかにして取り除くかという考え方になりますが、そこから生まれたのが「祈り」であり、錫杖寺のご本尊さまの功徳である「現世利益」になります。 生きているうちに少しでも幸せになりたいと思うことは共通の願いであり、当然のことなのです。
 ちなみに「彼岸」とは仏さまの世界(=浄土)を表しますので、このお彼岸のお参りよって来世は「四苦」から解放される浄土へ生まれ変われるように、しっかりとご先祖さまや守り本尊さまへご供養し、功徳を積んでいきましょう。

合掌

(2021.09)
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花火の音は思ったよりも大きかった・・・

 8月のお盆の頃は雨も多く、寒く感じるくらいの日も多くありましたが、今年の8月もとても暑い夏でした。 しかし、猛暑日の日数などで考えれば、昨年の方が圧倒的に多かったとのことでとても驚きです。
 暑さを感じることができるのは、代謝がよく若さと健康の証かもしれませんが、逆に運動不足で汗をかいていないからかもしれず、さすがに1年以上健康維持のための運動ができていないことを考えますと、いかにいままでの生活がありがたかったことを実感できます。
 昨年と同じように、8月は自分のお寺のお盆や施餓鬼などを中心に過ごしていましたが、1年前とは比べものにならないほどの新型コロナウイルス(COVID-19)の感染者数でしたので、さらに注意をして気を遣いながらのご供養となりました。
 おかげさまで、誰も感染者を出すことなく自分のお寺のお盆や施餓鬼の供養を終えることができましたが、まだまだ予断を許さず、心配は続きそうです。
 さて、このような状況でしたが、今年も何とか継続していとの気持ちで、錫杖寺は「錫杖寺寺子屋錫門キッズ」を開催しましたので、お話したいと思います。
 昨年に引き続き、新型コロナウイルス(COVID-19)への細心の注意を払いながらの開催となりました。 今回は昨年以上の感染者数が報告される中での開催だけでなく、川口市には『まん延防止等重点措置』が適応される中での開催でしたが、参加者が昨年より少なく、十分に間隔を空けられることや飲食を伴うプログラムがないことから、開催が可能な方法を模索し、何とか開催できたというのが正直なところです。
 幸いにして、この寺子屋の参加者からは新型コロナウイルス(COVID-19)の感染報告はなく、開催日から2週間たった時点で初めて安心することができました。

 昨年と同じように宿泊での開催はまず不可能との判断から、半日での開催となり、さらには飲食を伴わないものといたしました。 ただし、この8月の暑さですので、当然のことながら熱中症への対策は必要不可欠ですので、水筒を持参して各々飲み物は共通とならないようにお願いをしました。
 内容としては、基本的には寺子屋という寺院にて行う行事である以上、外せないプログラムとしてお経をお唱えすることはもちろんですが、瞑想や作務などは行うことにしました。
 昨年は、毎年変更のあるプログラムとして写仏を行いましたが、今年は蓮灯ろう作りを行いました。 この蓮灯ろう作りは、過去に1度だけ行ったことがありますが、灯ろうの性質を考えると、暗いところでこそ本領を発揮するものですので、通常の宿泊を伴う寺子屋では、夕食の後の限られた時間しか確保できず、とても忙しく満足したものを作製するだけの時間が取れませんでした。 しかし、今回は作成時間をしっかりと確保することができましたので参加してくれた子どもたちはとても真剣に取り組んでくれました。
 完成した蓮灯ろうは、とても個性的で、色や大きさに差があるのはもちろんですが、花弁の数も様々で、本堂でお供えした時はとてもきれいな光を放ち、きっとご本尊さまはお地蔵さま(=地蔵菩薩)ですから子どもたちが一所懸命作った蓮灯ろうをお供えしてくれたことは嬉しかったに違いありません。
 また、お楽しみとしては花火を行いましたが、昨年からの改善点として、保護者や参加者の兄弟や姉妹も一緒にできるように工夫しました。きもだめしができない分、少しでも花火でも楽しんでもらえるように数を増やし打ち上げなども行いましたが、思った以上に大きな音がして正直なところ私もかなり驚いたことはこの寺子屋のよい思い出になりました。
 話は変わりますが、蓮灯ろうのお話で、個性的という言葉を使いましたが、最近はこの「個性的」という概念が以前より理解が深まっている気がします。 特に、今回のオリンピックやパラリンピックで今まで以上に注目されるだけでなく、世間に受け入れられるようになったと感じています。
 例えば、身近な例として、靴下を左右別々の色のものを履いたとします。 以前でしたら、左右揃っていないから恥ずかしいなどと思われていたかもしれませんが、最近では個性的でオシャレだと思われることがあります。
 これがもう少し話が広がり、LGBTQなどの理解も進んでいると思いますが、これを仏教で考えるとどうなるでしょう。 真言宗の例で考えますと、男性では居士または信士、女性では大姉または信女とお戒名をお授けするにあたり、必ず性別により限定されますが、そろそろ議論すべき段階にきたのかもしれません。
 はるか昔は男性でなければ成仏できないと考えられていた時代も存在しました。 今考えればどうしてそのような思想に至ったかは理解しかねますが、過去にあった現実です。 そう考えると、未来から今を振り返れば、この戒名のことに関しても全く理解に値しないと言われる時代が来るかもしれません。
 新型コロナウイルス(COVID-19)により多くの当たり前が当たり前でなくなった今こそ、寺院も当たり前を当たり前と思わず、これらの問題を考える良い機会なのかもしれません。

合掌

(2021.08)
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世の中は不変であるが故に・・・

 この7月は雨の多かった昨年と比べると非常に暑い日が多く感じます。昨年のお盆の頃は、窓を開けて寝れば寒いくらいでしたが、今年は例年または例年以上の暑さで、この暑さは身体にこたえます。
 前にもお話したことがありますが、ようやく鳴き始めたセミも暑すぎると鳴かないようで、日中の暑さが逆にありがたく感じるという矛盾も覚えました。
 まず、今月は錫杖寺の「大施餓鬼供養」が行われましたのでお話したいと思います。 本来でありましたら、僧侶が約20人集まり、盛大な供養となる錫杖寺の「大施餓鬼供養」ですが、大変残念ながら今回も規模を縮小せざるを得ず、錫杖寺の総代・世話人・詠歌講・新盆をお迎えになるご家族の代表者のみ上堂という制限の下での法要となってしまいました。
 しかしながら、それでも新盆をお迎えになる仏さまを供養したいとの一心で、多くのご家族にご参加いただきご供養をしていただきました。 中には熱心に手を合わせている檀信徒や涙を流しながら供養している檀信徒の姿も見られました。

 出逢いに多くの形があるように、残念ながらお別れにも多くの形があります。 辛く悲しいお別れとなったご家族には、ぜひこの「大施餓鬼供養」を通して仏さまの何かを感じていただければ幸いです。
 また「盂蘭盆会」(=お盆)に関しても昨年同様に感染対策を徹底してお参り(=棚経)へお伺いさせていただきました。 なかなかマスクを着けたままお経をお唱えすることは、1年以上実践していても慣れることができず、1回の息継ぎで多くの空気を取り込めないため、息継ぎが多くなってしまいます。 すると、申し訳ないことにお経が途切れ途切れになってしまいます。しかしながら、これはマスクの効果がきちんと証明されていることにもなりますので、私にとっては安心の1つになります。 このような状況の中でもしっかりとお経をきれいだけでなく、心を込めてお唱えできるように精進しなければならないということでしょう。
 ちなみに、今年のお盆のお参り(=棚経)で心温まる光景を目にしました。 通常お盆では、お盆飾りというこの期間は普段の仏壇の飾り方とは違う飾り方をします。 最近では、お盆のお飾りのセットとして身近で購入することもできますので、特にそれぞれの飾り物の意味を考える機会は少ないかもしれません。 しかし、お盆飾りにはそれぞれに意味があるのです。
 代表例としては、牛と馬を表すものとして茄子とキュウリが挙げられます。 最近では農家の努力の甲斐があり、曲がった茄子やキュウリを見かけることは少なくなりました。 しかし、これらの作物を育てた経験のある方ならわかると思いますが、曲がらずにまっすぐな茄子やキュウリを育てることはなかなか難しいのです。
 逆にお盆飾りとしては、この少し曲がった茄子とキュウリが理想で、これらに割りばしなどを挿して牛や馬のように形を作ります。これはご先祖さまの乗り物としてお供えされるものです。 ちなみに茄子が牛を表し、きゅうりが馬を表しますが、このお盆飾りには先祖さまが馬に乗って早く自宅に戻ってきてほしいという願いと牛に乗ってゆっくりと仏さまの世界へ戻ってほしいという願いが込められています。
 先にお話した心温まるお話は、この牛と馬に関することなのですが、なんと牛の足は短く馬の足が異常に長かったのです。 これは、新盆を迎えた祖母のために中学生の孫が作ったとのことでしたが、お盆飾りの牛と馬の意味をよく理解して作ったのでしょう。 きゅうりの馬の足が異常に長かったのは少しでも早く帰ってきてほしいという切なる願いが込められていたのでしょう。
 さて、予定通り1年の延期となりましたが東京オリンピックが開催されました。 新型コロナウイルス(COVID-19)の影響がなければ昨年開催され、盛り上がっていたかもしれませんが、今回は賛否両論だけでなく多種多様な意見が飛び交うような状態となっています。
 ここで個人的な意見を申し上げるつもりはありませんが、大切なことは各人が最善を尽くすしかないということでしょう。 選手は選手なりに最善を尽くし、我々は我々なりに新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大防止のためにできることに協力するしかないのです。
 仏教では不変なものはありません。 良いこともあれば悪いこともあり、楽しいこともあれば辛いこともあるのです。 今はオリンピックに関係していない大多数の人が辛い状況にありますが、これは不変です。 いつか必ず道は開けます。 つまり新型コロナウイルス(COVID-19)に永遠に悩まされることはないのです。
 今できることが我慢だとしたら実践するしかありません。 さもなくば餓鬼道へと堕ちることになるでしょう。

合掌

(2021.07)
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実るほど頭を垂れる稲穂かな

 毎日のように梅雨の影響かはっきりとしない天気が続いています。 雨が降るのはもちろんありがたいことですが、何事も「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉があるように難しいところです。
 しかし、この雨の影響か例年よりも大変早く蓮の花が開花しました。 通常であえば7月のお盆の頃から8月にかけて開花することが多いのですが、今年の速さではお盆の頃には残念ながら蓮の花は楽しめないかもしれません。
 梅雨明けの様子はまだありませんが、あまり暑い日が続きますと人間も干からびてしまいますので、ほどよく雨を降らしつつ梅雨にはゆっくりとしてもらいたいものです。

 さて、今月はお時間をいただいて真言宗智山派の僧侶について少しお話させていただきたいと思います。
 最近では新型コロナウイルス(COVID-19)の影響により、規模が縮小されて少人数で行うことも多くなってしまいましたが、それでご法事やご葬儀などに参加されることはあると思います。
 仏式の場合では、宗派はともあれ僧侶によるご供養が行われますが、その時に僧侶の服装や持ち物を気にしてみることはなかなかないと思います。 しかし、これが大きな法要やご祈祷などで僧侶が複数になると、法衣(=衣)の色が違うことや持ち物が違うことなど、その違いに気が付くこともあると思います。 もちろん法衣の色が違うことや持ち物が違うことにも意味があります。
 真言宗智山派の僧侶で言えば、法衣の色は大きく分けて4種類あります。 この4種類とは緋色・紫色・萌黄色・浅青色のことで、僧侶の階級により着ることができる色が定められています。
 まず緋色に関しては、大僧正という真言宗智山派では最上位の僧侶のみ着ることが許されている色の法衣いなります。 ただ、大僧正は人数も少ないので緋色の法衣を着た僧侶を見る機会はそう多くありません。 なぜならば、この大僧正は最上位であるが故に簡単になることができないからです。 当然のことながら、真言宗智山派の総本山の管長はもちろん、大本山のご貫首などは大僧正ですが、錫杖寺の先代の住職(第36世江連俊則)と先々代の住職(第35世江連政雄)も大僧正でしたので錫杖寺には緋色の法衣が残っています。
 紫色に関しては、大僧正も含め僧正の位の僧侶が着ることを許されている法衣で、大僧正のように人数が少ないわけではありませんので菩提寺の住職さんが紫色の法衣のこともあると思います。 ただ、この紫色の法衣を着るためには、僧正にならなければならないのですが、この僧正になるためには「伝法灌頂」(でんぽうかんじょう)と「伝法大会」(でんぽうだいえ)を修めていなければなりません。 他にも少々難しい条件がありますが、それを達成すればなることができます。
 萌黄色(=緑色)に関しては、僧都の位の僧侶が着ることを許されている法衣で、若い僧侶を中心に僧侶の多くが僧都のために最も見かける法衣の色であると思います。
 最後に浅青色に関しては、律師の位の僧侶が着ることを許されている法衣で、なかなか総本山での法要や大きな法要以外では見ることの少ない色かもしれませんが、経験若い僧侶などは僧都になれないために着ている僧侶ももちろんいますので見ることもあると思います。
 私の場合は真言宗智山派が定める教育機関である大正大学にて仏教学を学び学位を得ましたので、ありがたいことに律師より上の僧都の位から僧侶になることができました。 その後、この「康秀街道」でも修行のお話や「伝法灌頂」(でんぽうかんじょう)と「伝法大会」(でんぽうだいえ)のお話もさせていただきました。
 今回私事でお話することも大変恐縮なのですが、僧正の位を得て紫色の法衣を着ることができるようになりました。 この紫色の衣を着られるようになるということは、私の僧侶の目標のひとつであり、それを最短で取得できたことは大変ありがたく「伝法灌頂」(でんぽうかんじょう)をいただき僧侶になった瞬間と同じくらいの喜びでもありました。
 しかし、僧侶としての位が上がるということは、それだけ大きな責任を伴うということです。 ことわざにも「稔ほど頭を垂れる稲穂かな」とありますが、正にその通りです。 位が上がったからといって怠ることなくこれからも変わらず、いや今以上に精進していきたいと思いますので応援ならびにご指導お願いします。
 間もなくお盆を迎えます。また錫杖寺では24日には「大施餓鬼会」があります。 未だ新型コロナウイルス(COVID-19)の影響は残りますが、ご先祖さまのご供養をするということは今を生かされている私たちの大切な行いのひとつです。
 私も厄年(前厄)ではありますが、多くの仏さまにご縁をいただき、お護りをいただいているおかげで僧正になることができ、健康に過ごすことができています。
 これからも今まで以上に感謝の気持ちを持って過ごしていきたいと思います。

合掌

(2021.06)
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雨垂れ石を穿つ!

 関東でははっきりと宣言されておりませんが、今年は全国的に異例の速さで梅雨入りとなり、すでに多くの雨の被害がもたらされているようです。 気象予報士のお話では、早く梅雨入りしたからと言っても早く梅雨が明けるわけではないようで、今年はどうやら長い梅雨となりそうです。
 今年も地蔵堂の前の黄櫨(ハゼノキ)が花を咲かせ、とても甘い香りを楽しませてくれました。 すると、不思議なことに蜜蜂の大群が驚くような羽音で1週間もたずに花の蜜がなくなってしまいました。 大変なのは掃除です。 蜜を吸われた花は残念ながら早く枯れてしまい、毎日のように塵取り一杯に花を散らしてしまいました。
 季節を表す言葉のひとつとして「栗花落」という言葉があります。 最近では大人気の『鬼滅の刃』(集英社)の登場人物にこの漢字を名字とする登場人物がいますので、小学生でも読むことができると思いますが「栗花落」(つゆり)と読みます。
 これは、今のような梅雨入りの時期に栗の花が落ちることから「栗花落」と漢字があてられたようですが、正直かなりの難読漢字です。 ちなみに「栗花落」は「ついり」と読むこともあるそうです。
 他にも難読漢字を用いた名字などで使われる言葉として「小鳥遊」(たかなし)や「月見里」(やまなし)などが挙げられますが、これらの漢字を考えた先人たちのセンスにはただただ脱帽です。
 さて、今月は錫杖寺の年中行事の「写経会」を実施いたしましたのでお話したいと思います。 昨年は「緊急事態宣言」が発令されておりましたのでやむなく中止の判断といたしました。 しかし、今年は埼玉県には「緊急事態宣言」が発令されていないことや「写経会」であり、飲食を伴う行事ではないことから実施の判断をいたしました。
 ただし、感染防止には最新の注意を払い、換気はもちろん参加者同士の間隔は十二分に確保して実施することで感染の報告なく無事に修めることができました。
 残念ながら、毎回のようにご出席してくれました方が欠席ですと、残念な気持ちになりますが、新型コロナウイルス(COVID-19)のことを考えれば仕方がありません。 錫杖寺の「写経会」はこの先も継続していきますので、いつかまたご参加いただけたら嬉しいです。
 話は変わりますが、先日26日は日本で皆既月食が見られるチャンスがありました。 しかもスーパームーンとも呼ばれ地球と月の距離が近くなり、月がいつもより大きく見えるタイミングと重なるということで話題になりました。 しかし、残念なことにここ埼玉県では雲に隠れてしまい全く見ることができませんでした。 埼玉県は日本で最も快晴の日が多い都道府県なのですが、今回は残念な結果となりました。
 日食や月食に関しては、今でこそ天文学の研究が進んでいるためその構造を私たちでも理解することができます。 ただ、知識もなしに突然として太陽や月が欠けるという現象が起きたら、それは驚き以外のないごとでもありません。 例えば、日食に関しては、突然として昼間に太陽が暗くなるわけですから、知識なくしてはこの世の終わりと錯覚してもおかしくなかったのです。 そのため、昔から日食や月食は不吉のものとされていました。
 しかし、平安期になりお大師さま(=弘法大師空海)による宿曜を用いた暦や蓄積された陰陽の知識などにより、日食や月食などの予想ができるようになると、この不吉な現象から人々は身を守ろうと考えました。 ただ、この時代ではまだ日食や月食の予想はできてもその仕組みまでは分からなかったのでしょう。
 この時によく用いられたのが「一字金輪法」と呼ばれる密教の修法のひとつで、主に息災を願う修法ですが、その力が非常に強大なものとして伝えられている修法でした。 そのため、当時は教王護国寺(=東寺)の長者など限られた高僧しか修法が許されない特別なものでした。 つまり、強大な力には強大な力で対抗しようとしたのです。
 現在ではこのような信仰は大変薄れてしまいましたが、太陽や月の影響の大きさは変わることはありません。 ほんの少し地球との距離が縮まるだけで夏と冬のような大きな気温差が発生し、海では潮汐が発生します。
簡単に言ってしまえば、何ミリメートルという単位でもこれほど大きな影響を受けるのですから、太陽や月の力が偉大であることはもちろん、それが欠けるという現象に大きな畏れを感じることは不思議なことではなかったのでしょう。
 梅雨になりますと雨や曇りの日が多くなり晴れることが少なくなります。 すると、いつも以上に太陽の恩恵を感じることができるでしょう。 何気ないことかもしれませんが、この何気ないことを積み重ねて生活できるということは実はありがたいことなのかもしれません。
 ことわざで「雨垂れ石を穿つ」という言葉がありますが、この何気ない平和な生活の積み重ねに感謝の気持ちを持って日々の生活を過ごしたいものです。

合掌

(2021.05)
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私は喜んで捨てます!

 3月からの暖かさを継続し、この4月も気候に恵まれ過ごしやすい日が多くありました。 しかし、その分暖かくなれば木々などの植物も夏に向けて活動を始めますが、その植物には残念ながら雑草も含まれるわけで、これからは墓地などの雑草退治に時間がかかりそうです。
 錫杖寺は都会の中にあっても木々などの緑が多いことが参拝者に喜ばれていますが、昨年の落葉のことを思い出すとなんだか複雑な気持ちです。 もちろん木々など緑が多く自然が多いのはありがたいことなのですが、少々木々も混みすぎているため、我々が蜜を避けなければならないように木々もそろそろ蜜を避ける必要があるかもしれません。 木には木の気持ちがあり、植木職人には職人としての気持ちがあり、両方を立てるというのは難しいものです。
 今月は、例年ならば年中行事が2つあるのですが、残念ながら「茶筅供養」は中止となりました。 確かにこの状況でお茶会を含めての開催となると、多くの人からの理解を得ることは難しく、不測の事態を考えれば当然の判断だと思います。 もちろん主催の川口茶道会の先生たちにとっては、大変苦しい判断だったと思います。
 しかしながら、新型コロナウイルス(COVID-19)に関しては、予防できるものは予防することは大切なことで、昼夜問わず献身的に仕事をされている医療関係者のことを考えれば、ごく一部の利権や名誉などは全く必要のないものでしょう。
 ただ「花まつり」に関しては、法要やご詠歌のお唱えを中止とし、自由参拝形式でお参りしてもらうことで実施しました。 昨年の「花まつり」とは違い、今年は当初のご案内から自由参拝としていましたので、昨年のように大きな混乱もなく準備して臨むことができました。 分散での参拝による多くのお参りを考慮して、例年よりも甘茶やお菓子を準備していたのですが、夕方になり片付けを始めた頃には甘茶はすべて授与されていて、このような状況下においても100人以上の方にお参りいただけたことに大変驚きました。

 大変ありがたいと思ったことは、小学校高学年から中学生くらいの子どもたちがお参りにきてくれましたが、お賽銭をあげてお参りをしてくれたのです。 きっと、自身のお小遣いの中からだと思いますが、お菓子代やジュース代になるであろう金額でした。
 仏教の言葉で「喜捨」(きしゃ)という言葉があります。 これは、先入観なしにこの言葉を考えようとすると「喜びを捨てる」と考えるでしょう。 しかし、一般的な概念として、辛い思いよりも嬉しい思いの方が良しと考えられますから、喜びを捨てるという考え方は少々理解に苦しみます。
 「喜捨」とは「喜んで捨てる」という意味になりますが、内容を考えようとすると、この「喜捨」を含む「慈悲喜捨」(じひきしゃ)という言葉を理解する必要があります。
 この「慈悲喜捨」という言葉は「四無量心」(しむりょうしん)という4つの限りない心を指します。 それが「慈」・「悲」・「喜」・「捨」となります。 下記にそれぞれの意味を簡単にまとめると、
 「慈」…他の人を慈しみ安楽を与える心
 「悲」…他の人の苦しみや悩みを取り除こうとする心
 「喜」…他の人の幸せを妬むことなく自分のことのように喜ぶ心
 「捨」…他の人に偏ることなく平等に接する心
となります。 これらの「四無量心」は、お釈迦さまによって説かれた大切な教えとなります。 私たちは生きていく上で幸せになりたいと思うことは当然で、先にもお話しましたが、辛い思いより嬉しい思いを得たいと思います。 つまり苦しみよりも楽を得たいということです。 そして、それを達成するために自分を中心に物事を考えるというのは仕方のないことかもしれません。 例えば「自分さえよければ…」と思うことも人間の「性」(さが)としてある意味当然のことなのかもしれません。
 しかし、それでは真の幸福は得られないとお釈迦さまは説かれています。 お釈迦さまは、自分が幸福になりたければ、自分だけが幸福になるのではなく、他の人が幸福になることで自身の幸福は得られると説いているのです。 そのためにお互いがお互いのことを想い「慈悲喜捨」を実践すれば、この世が仏国土(=浄土)となり、私たちは幸せに生きられると説いているのです。
 ちなみに「喜捨」の意味は「他の人のために喜んで捨てる」ということから「人のために施しをする」と意味になります。 あの子どもたちは、自分のお小遣いを喜んでお賽銭として差し出したわけですから、幸せにならないはずがありません。 私もあの子どもたちにはもちろん幸せになってほしいと思います。
 地域によっては緊急事態宣言も発令され、それ以外の地域でも未だに新型コロナウイルス(COVID-19)による心配は払拭されません。 ワクチンの話などもよく聞くことができるようになりましたが、やはり心配です。
 私たちは1年以上困難な生活を強いられていますがそれでも協力して頑張っています。 困難なことかもしれませんが、他の人を思いやり「喜捨」ができれば勝手な行いはできないはずです。 大切な人とのお別れの瞬間に立ち会えないことや葬送儀礼が行えないことはとても悲しいことです。 そうならないためにもぜひ「喜捨」の意味を考えてみましょう。

合掌

(2021.04)
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一粒万倍とはこのことなのか?

 この時期を表す言葉として「暑さ寒さも彼岸まで」または「三寒四温」などがありますが、驚くことにこれらの言葉が表すように今月も終わりに進むにつれて暖かい日が多くなりました。
 昨年は桜の開花が早く、驚いた記憶がありますが、今年も桜の開花が早く、お彼岸の頃にはすでに錫杖寺の枝垂れ桜も満開となり、参拝の方々が参道で写真を撮っている様子を多く見ることができました。 昨年のように彼岸を過ぎて雪こそ降らなかったものの暖かいを通り越して夏日がすでにあったことに驚きを隠せません。 毎年思うことなのですが、今年の夏も猛暑となってしまうのではないかと心配になります。
 まず始めに今月は錫杖寺の春の行事のひとつ「春彼岸法要」を行いましたのでお話したいと思います。 大変残念ながら、お彼岸の法要の日(春分の日)は緊急事態宣言下にありましたので、本堂への上堂は檀信徒の代表として総代・世話人・ご詠歌講員のみさせていただき、ご供養していただきました。

 昨年の「秋彼岸供養」の時よりも感染者数が多く、緊急事態宣言下ということを考慮した結果ですが、毎年多くの檀信徒にお参りをいただいていた法要のひとつですので、とても申し訳ない気持ちです。 しかし、リスクは大小に関わらず回避するべきとの結果とは言え、お彼岸中は分散参拝にご協力をいただき、多くの檀信徒にご理解いただけたことを大変ありがたく思います。
 そして、このような状況とは言え、毎年変わらず多くの方にお参りだけでなく、お塔婆を建てて供養していただきました。 これも大変ありがたい限りです。
 ただ、例年の「錫門茶屋」も引き続き中止せざるを得ない状況で、毎回楽しみにしていた檀信徒の方からは「焼きそばの匂いがないと寂しい」とのお声もいただきました。 私自身もお線香などの香りで満たされる境内もとても好きなのですが、鉄板焼きの匂いのする境内もご縁日のような記憶が蘇りとても好きなのです。 必ずまた再開できる時がくると思いますのでそれまでお待ちいただければ幸いです。
 今回の「春彼岸法要」では、住職の法話の中に先祖に関する内容がありました。私たちが今この世に存在できたことは、両親がいるからであり、その両親には当然また両親が存在するわけです。 これを20代も遡るとおよそ200万人のご先祖さまが存在するという話でした。 さらに遡ると、どのような数字となるのか想像もつきません。
 このなかなか想像のつかない数の話に本堂の総代・世話人・ご詠歌講員たちはとても驚いた様子でした。 簡単に言ってしまえば、このお彼岸やお盆などの供養は、ご先祖さまの供養に相当しますが、考え直してみればものすごい数のご先祖さまを供養していることになります。 お塔婆1本建てることもありがたいご供養なのかを改めて感じることもできました。
 さて話は変わりますが「東日本大震災」から10年が経ちました。 今回は10年という節目に当たり、多くのメディアなどで例年以上にこの「東日本大震災」に関するものを見る機会がありました。
 確かにあの地震のことは、私自身も未だに忘れることのできません。 そして、この先も忘れてはならないと思います。 10年という歳月が過ぎようと、未だ多くの方がその苦しみを抱えていることを決して忘れてはならないのです。
 今年の「希望の鐘」は例年以上に大きな音が響くように鐘を撞き、手を合わせて供養させていただきました。 少しでも多くの人の心へ響いてくれたなら嬉しく思います。
 4月から新生活を迎える方が多くいると思います。 未だ驚異的な新型コロナウイルス(COVID-19)のことを考えれば、いくら1年かけて少しずつ順応してきたからとは言え、今までのような新生活を迎えることは難しいかもしれません。
 私自身もこの1年で随分と生活様式が変化してしましました。 ただ、今大切なことは、数多くのご先祖さまからご縁をいただいたこの命そのものを守ること、それを後世につなぐことが大切なのだと思います。
 お花見したい気持ちも十分に理解できます。 しかし、きっと来年も花は咲くはずですから、誰かのためと思い、今は修行の最中として精進の気持ちで生活していきましょう。

合掌

(2021.03)
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こんな供養はいらない?

 寒い日が多かった先月に比べ、2月も下旬になると暖かい日が多くなってきました。 昨年も暖かい2月だった記憶がありますが、その暖かさのためかすでに早咲きの安行桜が花芽をつけて、小学校の隣の桜も彼岸前に満開となりそうです。 ただ、雨が降らないために乾燥が進み、アルコール消毒が日常となった昨今の手肌には少々辛い時期が続きそうです。
 今月は、錫杖寺の大きな行事のひとつ「節分会大護摩供修行」がありましたのでお話したいと思います。 昨年は、まだ新型コロナウイルス(COVID-19)の感染の心配もほとんど考えられない状況でしたので、盛大に豆まきをいたしましたが、今年は緊急事態宣言中ということもありますが、感染対策を講じる必要があったため、豆まきは残念ながら中止するしかありませんでした。 また、お正月のお護摩修行と同じようにお堂の中への上堂も大幅に人数を制限してお護摩を行うこととなりました。 錫杖寺では、特別に「福茶」と呼ばれ、日本茶に梅干しと福豆を入れたものを振舞っていましたが、飲食であるが故に今年は振舞うこともできず、静かな節分となってしまいました。
 ただ、節分もとても大切な伝統行事のひとつなので、除夜の鐘と同じようにここで錫杖寺の伝統行事を中止するわけにはいかず、今の状況でできることを考えて実践することといたしました。 そこで、昨年の豆まきで子どもたちがとても楽しそうにしていたことを思い出し、錫杖寺の近隣の保育園にお声かけをさせていただき、ご祈祷したお豆とお菓子をプレゼントすることにいたしました。 大変ありがたいことに、当日は近隣の保育園の園児たちがお参りにきてくれて、多くの子どもたちの喜ぶ顔を見ることができました。
 錫杖寺のご本尊さまはご承知の通り「地蔵菩薩」(=お地蔵さま)ですから、他のどの仏さまよりも子どもたちのことが好きで、子どもたちの笑顔や笑い声が何よりもご供養になるのです。 もちろん仏さまへの供養を考えると、基本は心を込めて手を合わせることと思いますが、それだけが供養の形ではありません。 では、どのような供養の形があるのかを「地蔵菩薩」(=お地蔵さま)を中心に考えてみたいと思います。
 先ほどお話した通り、供養という言葉を考えますと、神社などで神々を礼拝する時は「二礼二拍手一礼」を想像し、寺院で仏さまを礼拝する時は「合掌」を想像すると思います。 たまに錫杖寺の本堂でも手をたたきお参りをしている人がいますが、厳密に言えば誤ったお参りの仕方なのかもしれません。 しかし、神仏という大きなくくりや神仏習合という日本の歴史を通しての信仰と考えれば、信心あっての行為ですので必ずしも誤りとは言えません。
 特に「地蔵菩薩」(=お地蔵さま)に関して言えば、身近な存在であるがゆえに仏教学的なことよりも民俗学的な信仰より派生したと考えられるお参りの方法が、他の仏さまよりも多く見られる傾向があります。特徴的なものですと縄で縛られてしまうお地蔵さまもいれば、全身を塩で覆われたお地蔵さまもいます。 また、お地蔵さまの本体(=身体)を担いで回ることでご利益にあずかる供養の方法や場合によっては放り投げる供養もあるようです。
 ちなみに、とんちで有名な一休禅師とお地蔵さまの有名なお話も存在しますが、これは非常に驚くお話ですが、お地蔵さまの開眼供養(=魂入れの供養)を一休禅師にお願いをしたところ、お経をお唱えするわけではなく、立小便をかけたというお話があります。 言い換えれば、一休禅師は魂入れの供養として立小便をかけたわけです。
 これは、お地蔵さまの仏さまとしての特性を理解したうえでの行動なのですが、そこにいた人々が動揺し困惑したことは想像に難しくありません。
 これらのように疑問を抱くような供養の方法などが現在に伝わっているのは、民俗学的な信仰の強さによるものと思います。 例えば、貴重な塩をお地蔵さまにお供えするよりも自分の身体の悪い部分と同じ部分に塗って手を合わせ、結果として快復したならば、そのお参りの仕方が後世へと語り継がれるわけですから、そのお地蔵さまの基本的なお参りの形として定着することになります。 さらに言えば、お地蔵さまがこれだけ多くの方法で供養されるということは、それだけお地蔵さまが身近な仏さまとして信仰されてきた証として考えることができるでしょう。
 未だ新型コロナウイルスの影響は衰えず、今までのような生活に戻れることは先の話かもしれません。 今の社会情勢に則した新しい供養の方法が提唱されることも十分考えられます。
 仏教は日本の歴史の中で、受難な時代もありましたが、必ずその時代に合わせて様々な形で救いの手を差し伸べてきました。 今も将来の歴史の中で考えればその変革のひとつなのかもしれません。
 お地蔵さまが人々の信仰に応じて供養の方法を変えてきたように、仏教そのものも今の時代やこれからの時代に則し身近な存在であることは変わらずに後世に引き継がれてほしいものです。

合掌

(2021.02)
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牛の心は身体のごとし・・・

 寒かった冬も立春に向けて少しずつ暖かい朝も多くなりました。 この冬は、寒い日も多く、地蔵堂の前の天水桶や蓮鉢の水が氷っていることもしばしばで、その氷も意外と厚く驚いたこともありました。
 昨年もこの「康秀街道」をお読みいただきましてありがとうございました。 毎年思うことですが、難しすぎず分かりやすく錫杖寺のことや仏教のことをお話したいと思っていますが、いつまでたっても文章の能力が上がらず、ご迷惑おかけして申し訳ありません。 今年も大らかなお気持ちで1年お付き合いくださいますようお願い申し上げます。
 ご承知の通り、昨年から新型コロナウイルス(COVID-19)による影響は大きなもので、錫杖寺の大晦日は信じられないほどお参りの方が少なく、私もこれほどまでに参拝者が少ないのは初めての経験でした。
 除夜の鐘に関しても、伝統行事を中止するわけにはいかず、錫杖寺の役員関係者で108回鐘を撞きましたが、役員関係者の中から「いつも手伝いで鐘を撞いたことがないから感動した」という声もあり、いつも以上にご奉仕いただいていることがありがたいと感じました。
 私は残念ながら受付テントを離れることができず無理でしたが、僧侶の中でも鐘を撞けた者もいるようで、今回は非常に貴重な経験をすることができたようです。
 新年のお参りに関して考えれば、分散参拝というお参りの仕方が浸透したようで、お正月三が日だけでなく、現在も平日や休日を問わず日々多くの方がお参りにいらしています。
 お参りにいらした人の中で、やはり気になるのは「おみくじ」のようで、よく子どもたちが「おみくじ」の内容で一喜一憂している姿を見かけることがあります。 運よく私は当たったことはありませんが、残念なことに錫杖寺の「おみくじ」には「凶」や「大凶」も入っていますので、ぜひ新年の運試しとして「おみくじ」を楽しんでいただけたら幸いです。

 さて、今回も恒例となりました干支と仏教に関するお話を紹介したいと思います。 今回は「丑年」ですので「牛」のお話を仏教説話集の『ジャータカ』より紹介したいと思います。
 昔あるところに1匹の水牛がいました。 その水牛は、ある日木の下で休んでいました。 するとその木から猿が降りてきて、水牛の背にのぼり、糞尿を撒き散らし、角や尾を掴み悪戯をしました。 ところがその水牛は猿の悪戯を気にすることなく、仕返しをしようともしませんでした。
 それでも猿はしつこく悪戯を続けました。 それを見て、ある日森の神さまが水牛に仕返しをしない理由を尋ねました。 森の神さまは「どうしてそのような悪戯をされても仕返しをしないのですか?あなたは身体も大きく猿よりも強いはずです」と水牛にきいたところ「私は猿のことを愚かに思います。 その愚かな者の悪戯に耐え忍ぶことができなければ、私は大いなる目的を達成できません。 自分より強い者に悪戯されたら仕返しすることはできませんから、私は真の忍耐を得ることはできません。 もし自分より弱い猿に仕返しをしたら私はこの先忍耐を得ることはできないでしょう」と答えました。
 しばらくすると、その水牛は木の下から離れていきました。 すると、別の水牛がやってきました。 当然のように猿はその水牛にも同じように悪戯をしました。 すると、その水牛は激怒し、猿を振り落として角で殺してしまいました。
 この忍耐を兼ね備えた水牛は、お釈迦さまだったのでした。

 このお話の中には、仏教の教えである「因果応報」(人の行いの善悪によりそれ相応の報いをえること)も説かれ、善行をした水牛は「忍辱」(にんにく)という仏教の六波羅蜜の1つであり大切な教えを悟ることができました。 この「忍辱」は、簡単に説明すれば、困難にも動じず怒りの心を起こさず耐え忍ぶことを表します。 つまり、この水牛は猿の悪戯に耐えるという修行を達成して悟りを得たのです。 逆に、悪行をした猿には、最後は命を落とすという結果がもたらされました。
 不思議なことに、とても時事的なお話となりました。 昨年の「康秀街道」でも何度もお話してきましたが、新型コロナウイルス(COVID-19)により我々は多くの忍耐を経験することとなりました。 しかし、大切なのは、さらに踏み込んだ「忍辱」という仏教の教えまで到達することなのです。
 どちらかと言えば「忍耐」は我慢するという行為に近いかもしれません。 しかし、その心の中は、場合によっては負の心である三毒(貪・瞋・痴)などに支配されることもあるでしょう。 しかし「忍辱」は違います。 耐え忍ぶ心の中に三毒は存在しません。 そのために仏教の修行の中から得られるものとして「忍辱」はとてもありがたいものとして重宝されています。
 今年も昨年のように我慢を強いられる生活が続くかもしれません。 難しいかもしれませんが、この水牛のようにすべての人が「忍辱」を悟ることができれば、私たちは真の意味で安心を得て、今までのような生活に戻れるようになるかもしれません。 忍耐の1年になるかもしれませんが、精進してまいりましょう。
 今年もよろしくお願いします。

合掌

(2021.01)
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新年のごあいさつ

 まず初めに、謹んで新しい年を迎えることができましたことを心よりお慶び申し上げます。
 昨年は新型コロナウイルス(COVID-19)により多くの尊い命がお亡くなりになり、多くの方が苦しみ振り返れば辛い1年でありました。
 今年1年はより良い1年となりますように檀信徒のみなさまの無事を祈り、錫杖寺では僧侶ならびに関係者が一丸となってご本尊延命地蔵菩薩さまにご祈願をしております。 無事に新年を迎えられたことを慶び、今年1年が昨年よりもよい1年となるようにみなさまもお祈りください。
 今年の干支は「丑」になります。 この「丑」とは「紐」という字の旁(つくり)に相当しますが、この「紐」は「大切なものを結ぶときに使うもの」と考えられます。 つまり「丑」は大切なものを結ぶ時に用いられるものですので、今年は大切な人との絆を深めるよい年なのかもしれません。
 未だ新型コロナウイルス(COVID-19)の心配は払拭できませんが、12年に1度くらいは「丑」のようにのんびりとしてもよい1年と考え、自分を大切に・家族や仲間を大切に…無事に過ごしていけたらよいと思います。
 今年もよろしくお願いします。

合掌

(2021.元旦)
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