康秀街道~こうしゅうかいどう~  駒井僧侶による執筆です。月々移り行くお寺のお話をお楽しみ下さい。

RとDの間に・・・

 5月も終わりを迎え間もなく梅雨の時期となります。 さすがに5月は寒く感じる日は少なく、暖かいと感じるよりも暑く感じることの方が多くなりました。 先月も少しお話しましたが、ちょうどよい季節の変わり目は少なく、いつの間にか夏になってしまうかもしれません。
 錫杖寺も、夏に向けて多くの虫などが増えてきました。 特に、この時期に咲く黄櫨(ハゼノキ)の花の蜜を求め、どこからともなく蜜蜂たちが一斉に集まり、短期間に花の蜜を採取していきます。 この黄櫨(ハゼノキ)の花は、とても良い香りがするので、ハチミツがどれ程美味しいか食べてみたいと思うのは罪かもしれません。
 この5月も、中旬まで先月から政府の「緊急事態宣言」が継続されておりましたので、お参りの方も少なく、予定しておりました錫杖寺の年1回の「写経会」も中止という判断にいたりました。
 昨年は5月に新元号へと改正されたこともあり、御朱印を求め大変多くの方がゴールデンウィークにお参りにいらしていただいた分、少々残念ではありますが、やはり新型コロナウイルス(COVID-19)感染拡大を考えれば仕方ありません。
 この「写経会」への参加を希望されていた方には申し訳ない判断でしたが、参加者の健康や新型コロナウイルス(COVID-19)感染のリスクを考え正しい判断であったと思います。
 さて、その「緊急事態宣言」ですが、25日をもちまして全国での宣言解除となりました。 これにより、段階的ではありますが、日本中が今までの生活へと戻ろうとしています。
 昨年の豪雨災害や大震災などでも思いましたが、当たり前が当たり前でなくなった時などに、私たちはそのありがたみを再認識します。 私自身の経験としても、今から20年も前の話になりますが、修行時代はかなりの制約がありましたので、修行が終わって総本山を後にした時は、同じように当たり前だった日常にありがたみを感じたことを覚えています。
 もちろん今でもそうですが、未熟者故の心のゆがみや葛藤もありました。朝食の後に見える門の外の景色は唯一の楽しみで、何度となく1歩でもこの門をくぐってしまいたいと思ったこともありました。
 しかし、今となればそれも私という人間を形成する一部となり、便利な私の頭の中は当時の苦しい思い出や辛い思い出は全く残っておらず、逆に自信となっています。
 予定通りならば、3月から休みとなっていた子どもたちは学校が再開となるようです。 これだけ長い期間に学校が閉校となり、卒業式や入学式を行えなかった子どもたちにとっては、とても辛く悲しい思いが今は強いと思います。 しかし、時間が経って大人になったときに改めて振り返ると違った気持ちになれるかもしれません。
 私たちが悲しい気持ちになることや辛い気持ちになるのは、それは「執着」(しゅうじゃく)といものが存在するからです。 この「執着」(しゅうじゃく)に関しては、以前も少しお話したことがありますが、簡単に言ってしまえば何かに心がとらわれて離れられなくなっている状態のことです。
 例えば、パンを食べたいと思いパン屋に行った結果、売り切れでパンが買えなかったら余計に食べたくなった経験などあると思います。 これは、食べたいと思ったパンがなかったことで余計にパンが食べたいという欲が満たされなかったためですが、ここでパンにとらわれたままならば「執着」(しゅうじゃく)となります。そして、この「執着」(しゅうじゃく)は、私たちの心に悩みや苦しみを与えてきます。
 ただし、この「執着」(しゅうじゃく)から離れ、悩みや苦しみからも解放される簡単な方法があります。 それは、諦めればよいのです。 ただし、諦めることは簡単でないかもしれませんので、考え方を良いほうに向ければよいのです。
 例えば、上記の続きでパンを食べられなかったとしても、そもそもパンを欲しくなかったと正反対に考えることや、また明日パンを食べられればよいと考えれば、自ずと「執着」(しゅうじゃく)より解放されると思います。
 よい方向に考えることは、この「執着」(しゅうじゃく)から離れることができない限り難しいと思います。 それならば、様々な対象を相対的に考えることが簡単かもしれません。 言い換えれば、物事の事象をAかBかと考えた場合に、その中間を考えればよいと思います。 これを仏教では「執着」(しゅうじゃく)から離れるものとして「中道」(ちゅうどう)と言い、非常に大切な教えとして受け継がれています。 ちなみに、この「中道」(ちゅうどう)も以前少しだけお話したことがありますが、偏らないことを意味します。
 人間である以上、私を含め、ないものをねだり、人を妬むことは当然あります。特にこの新型コロナウイルス(COVID-19)で大切な人や他の人を守るためとは言え、自粛を求められ、今までのような生活ができない昨今の状況を考えれば、なおさら他人と自分を比較し、他人よりも優位的な位置にいたいという欲求が発生し、他人を陥れるような気持ちや行動に移ってしまうこともあるでしょう。
 難しいこととはわかっていますが、こういう時こそ偏らない心で過ごすことが大切なはずです。向かい風は障害となりますが、自身が反対を向けば追い風になります。 少しの考え方や工夫の仕方で全く反対の結果が生まれることもあります。
 今までどおりが困難ならば、今こそ「中道」(ちゅうどう)を実践し、客観的に物事を判断し、偏らない心(=ニュートラル)で生活してみてれば、少しは気が楽になるかもしれません。

合掌

(2020.05)
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送られる幸せの意味・・・

 暖かかった3月と比べると、例年より寒い日も多く感じた4月でしたが、下旬になると暖かい日も増えてきました。 今年は錫杖寺の桜も例年より早く開花した分、気が付いた頃には緑の葉となり、夏の訪れが早くなるような気もします。 秋が短く感じることは近年多くありましたが、春も短くなってしまうのか心配になります。
 本来でしたら、錫杖寺の年中行事として4月は「花まつり」と「茶筅供養」が予定されていましたが、未だ終息の見えない新型コロナウイルス(COVID-19)の影響で「茶筅供養」は残念ながら早々に中止となりました。
 ただ、4月8日の「花まつり」に関しましては、政府が「緊急事態宣言」を発令したのが前日の7日であったため、中止という判断ではなく、例年とは違う形で行いました。
 本来でしたら、お釈迦さま誕生を祝うために法要を行い、ご詠歌を奉納するのですが、外とはいえ多くの人が同時に集まることや発声してのお唱えなどは、極力控えるべきと判断して自由参拝としました。
 山門の下に飾られた花御堂とお釈迦さまは、少々寂しげに感じましたが、非常に暖かく天候のよい日でしたので、大変多くの方がお参りしてくれたようです。 お土産用に用意しておいた甘茶は、予定よりも早くなくなってしまい、お菓子も気が付けばなくなっていました。
 法要こそ行えませんでしたが、時間を定めずに自由にお参りいただくことで、結果として多くの方に誕生を祝ってもらったお釈迦さまは片付ける頃には嬉しそうに感じました。
 さて、この4月は先月以上に新型コロナウイルス(COVID-19)が猛威を振るい、日本だけでなく世界中で多くの感染が報告され、普段の生活にも身が引き締まるような思いです。 大変残念なことに、この新型コロナウイルス(COVID-19)によってお亡くなりになられた方は多く、中には私も小さい頃からテレビの向こう側で当たり前のように元気な姿を見ていた人もお亡くなりになってしまいました。
 そして、さらに残念なこととして、この新型コロナウイルス(COVID-19)でお亡くなりになった場合は「葬送儀礼」が行えないのです。 それは、言い換えれば、大切な人とのお別れはおろか、お骨を拾うこともできないということです。 つまり、非情な表現かもしれませんが、その人の生きた証を記憶に残せないということになります。
 今回は、大切な人とのお別れである「葬送儀礼」について少し考えてみたいと思います。 ちなみに「葬送儀礼」に関しては、仏教でいえば宗派による違いもあると思いますので、あくまでも広義として考えてみたいと思います。
 まず「葬送儀礼」という言葉を用いましたが、これは「葬送儀礼」を略したものが「葬儀」となり、こちらの方が一般的かもしれません。 よく「告別式」という言葉を耳にすることもありますが、仏教学的には「告別式」は「葬送儀礼」ではなく、簡単に言い換えれば「お別れ会」のようなものですので、極端な話をすれば僧侶不在でも成立するものになります。
 この「葬儀」に関して、日本の歴史を考えてみますと、仏教が日本に伝来する以前から「弔い」としての儀式はありました。 ただ、仏教が日本に伝来しても今のような「葬儀」の形態をとっていた訳ではなく、現在のような「葬儀」が一般的に行われたのは檀家制度の確立した江戸期と考えてよいでしょう。
 それ以前にも「葬儀」のような形態の儀礼はあったでしょうが、時代を考えると当時の皇族や貴族などが中心であり、一般的には埋葬供養すらされない時代も当然ながらありました。 有名な『今昔物語集』の「巻二十九羅城門の上層ニ登リテ死人ヲ見たる盗人の語第十八」の結びには、
 然て、其の上の層には、死人の骸ぞ多かりける。
 死たる人の葬など否為ぬをば、此の門の上にぞ置ける。
 此の事は、其の盗人の人に語けるを聞継て、此く語り伝へたるとや。

 このように書かれ、羅城門の上階には葬儀をしてもらえなかった多くの死人や骨が多く転がっていた様子が書かれています。 そして、それが伝えられているということは、現実として存在したと考えることができます。 つまり、儀礼として「葬儀」は特別なものだったのです。
 それが一般的になったとは言え、やはり「葬儀」というのは特別なものでなければならないと私は思います。 それは、真言宗の立場から言えば、引導を授けてもらうことにより大日如来を始め、多くの仏さまと結ばれる大切な日であり、この世に「人」として存在した大切な証を示す日でもあり、何より大切な人とお別れをする最後の日でもあります。
 近年では、大変残念ながら、合理的なのか、葬儀社の影響か、社会的な流れかは分かりませんが、直葬や1日葬などが注目されています。確かにお釈迦さまのご遺言に基づけば「葬儀は不要」との教えをあり、葬儀に僧侶は不要と考える人もいるかもしれません。 しかし、それは「仏教」が生きるための宗教であるという考えに基づき、悲しみを抱えている人から苦を取り除くとの考え方である必要があります。
 つまり、この「葬送儀礼」に関しては、お亡くなりになった人を供養することだけでなく、悲しみにあふれる家族や親族など、供養する側の「愛別離苦」(あいべつりく)という「四苦八苦」のひとつを取り除くためでなければならないのです。 そのために「通夜」として「葬儀」として、それぞれに意味があるのです。
 大切な人が亡くなるという現実に直面した時、普通に「葬儀」としてのお別れや供養できない現実もある今、もう一度「葬送儀礼」の大切さやその意義を考え直すことが大切なのかもしれません。

合掌

(2020.04)
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目に見えなくとも・・・

 今年の3月は例年よりも桜の開花が早く、暖かい日が多い3月となりましたが、月末には季節外れの雪に見舞われ、彼岸を過ぎても訪れた寒さに身体が驚いてしまいそうです。 これも異常気象や温暖化の影響とひと言で片づけてしまうのは少々難しい問題かもしれません。
 今月は「春彼岸法要」が行われましたのでお話したいと思います。 昨今の社会情勢を踏まえれば、先月以上に新型コロナウイルス(COVID-19)が世界中に蔓延し、日本でも決して対岸の火事ではない事態となっているのは誰もが周知しているところだと思います。 しかし、春分の日(20日)時点では、私たちもそれ程日本での感染者数は多く報告されず、3月末のような深刻な事態と受け止めていたわけではありませんでした。
 実際に多くの寺院がこの「彼岸法要」に関しては、中止または一般の参列をなしとして実施したようですが、錫杖寺では中止ではなく規模を大幅に縮小して行いました。
 もちろん例年に比べて参拝者は少なく、恒例となりました出店の「錫門茶屋」も中止としましたので、寂しい感じは否めませんでしたが、それでもお互いが気をつけながらお参りをしている様子が見られました。 法要当日も風が非常に強かったのですが、本堂を可能な限り扉を開けて換気を良くし、参列は一方向に限定し、焼香の時も参列者への挨拶などはすべて省略し、可能な限りの対策を尽くしての法要でした。

 さて、やはりこの話を考えなければならないと思いますが、新型コロナウイルス(COVID-19)が世界中で脅威となっています。 先月の『康秀街道』を書いているときは、これほどの影響は出ることなく、東京オリンピックも予定通りの開催となると思っていましたが、たった1ヶ月という短い期間に多くのことが変わってしましました。
 寺院に関して考えれば、例えば錫杖寺は、密閉空間や密集空間ではなく、家族単位でのお墓参りなどなら、影響はないとは言えずとも少ないと考えられるかもしれません。 ただ、法事に関しても人数が大幅に少なく、下旬になりますとご朱印を求めてお参りされる人も少なくなったように感じます。
 なぜ私たちは、この新型コロナウイルス(COVID-19)を脅威に感じるのか考えてみたいと思いますが、それは目に見えないことだと思います。 例えば、日常生活でも体験することができますが、目をつぶったら、すぐ先までもまっすぐ歩くことすら難しいと思います。 つまり、それだけ目から入る情報は多く、いかに私たちは目から入る情報に頼っているのかを実感できます。
 そして、目に見えず最も恐ろしいものは、仏教学でなくともすべての思想において「死」であると私は思います。 なぜなら、今生きている我々のすぐ隣に存在するかもしれないのに目に見えず、突如として訪れるかもしれないもので、実体がないものだからです。 もし「死」というものに実体があり、目に見えるものならば正しく恐れることができ、回避することができるかもしれません。 しかし、それが不可能であるから最も恐ろしく感じるのです。
 ただ、目に見えないからこそありがたく感じるものもあります。 それは、仏さまであり神さまであり、人の心であると私は強く思います。 特に人の心という面では、この新型コロナウイルス(COVID-19)の影響でマスクの不足が全く解消しない中、とても心温まるニュースを耳にしました。 それは、中学生の女の子が私財を投げ打ち、マスクを作成して寄付をしたニュースです。 そしてその私財とは、生まれてから1度も使うことなく貯めてきたお年玉であったとのことです。
 では、目に見えないものをどのようにしたら感じることができるのかを疑問に思うと思います。 これはそれ程難しいことではなく、例えば、子どもたちの瞑想の時間に実践したことがあるのですが、目から入る情報を遮断して、他の感覚を研ぎ澄ませればよいのです。
 目をつぶり正座などで合掌をしていると、目から入る情報はなくなります。 すると、今自分が置かれている状況を理解しようと他の感覚が研ぎ澄まされ、いつも以上に耳から聞こえる物音に敏感になったり、鼻から入る匂いに敏感になったりします。 実際、子どもたちの瞑想の時間に途中から隠れて香を焚きましたが、いい匂いとして感じる子どもたちが多くいました。 もし、これが目から先に香が焚かれているという情報が入っていれば、匂いに関して集中することもなかったかもしれませんが、目をつぶったことにより、今まで以上に同じ香の匂いでも深く感じることができたのです。
 仕事や勉強の成果でももちろんですが、目に見える結果はとても大切で追及したくなるものです。 しかし、目に見えなくても存在するものをいかに感じることができるかにより、今までとは違った感覚を身に付けることができるかもしれません。
 未だ世界中が恐怖で覆われている今こそ、仏教徒として見えなくても必ず存在する仏さまの救いの手を信じ、この困難に立ち向かっていくべきでしょう。
 くれぐれもご自愛の上、今までのような、そして今まで以上に平穏な日々が訪れることを共にお祈りしましょう。

合掌

(2020.03)
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思いやりとは・・・?

 2月も終わろうとしています。 今年は閏年のため1日多く29日まであります。 子どものころは1日多く学校に行くことが憂鬱に感じることもありましたが、さすがにこの年になるとそのような感情はなく、どちらかと言えばオリンピックが開催される年くらいの認識しかありません。
 しかし、驚くことにこの暖かさの影響は大きく、例年隣の小学校の早咲きの安行桜も3月の彼岸頃ですが、すでに花が咲いています。 ひょっとしたら、大風でも吹けば散ってしまうのではないかと感じるくらいです。 温暖化の影響は免れず、今まで以上に真剣に考えなければならないのかもしれません。
 さて、今月は錫杖寺の大きな行事のひとつ「節分会大護摩供修行」がありましたのでお話したいと思います。 昨年は節分の日が日曜日ということもあり、錫杖寺では初めての試みとして豆まきを大々的に行いましたが、今年も引き続き「護摩修行」の後に豆まきを開催することになりました。
 今年の節分の日は平日の月曜日と言うことや近隣の寺社でも豆まきが行われていることを考慮して、長い錫杖寺の節分会の歴史の中で初めての時間も変更して、3時半からの「護摩修行」と豆まきといたしました。 平日の豆まきというのも錫杖寺にとってみれば初めてでしたので、多くの参拝者にお参りに来てもらえるか心配でしたが、当日は多くの方にお参りいただき、盛大に行うことができました。
 幸運にも、隣の小学校が振り替え休日であったため、子どもたちも多く豆まきに参加してくれました。 また、目の前の保育所の子どもたちも参加してくれまして、多くのお菓子をもって笑っている姿がとっても印象に残りました。

 近年は「除夜の鐘」などが騒音などとして考えられ、日本古来の伝統行事や神事などまでも中止に追いやられることが多くなってきました。 その反面、イースターやハロウィンなどの海外の伝統行事が日本でも多く開催されるようになり、盛り上がりを見せているようです。
 私も子どものころは、地元のお寺で行われた豆まきは楽しみで、親に連れて行ってもらった記憶や友人と行った記憶が未だに残っています。 もし、節分の豆まきに参加してくれた子どもたちが、日本の伝統行事のひとつとしてこれを継承してくれたらありがたいと思った日でもありました。
 話は変わりますが、先に少しお話した温暖化以上に現時点で真剣に考えなければならない問題があります。 それは新型コロナウイルス(COVID-19)でしょう。 2月の下旬ではすでに日本国内でもお亡くなりになられた方が何人もいて、感染も全世界へと広がりを見せているようです。
 私自身もそうですが、今まではどこかで対岸の火事くらいに感じていたものが身近に感じるようになると、もちろん怖いという感覚は多少なりとも湧いてきます。 それが、予想のできないものや目に見えないものとなるとなおさらです。
 こういう時には、やはりお互い協力しあうことがいつも以上に求められると思います。 以前にもお話したことがありますが、今こそ椎尾弁匡(しいおべんきょう)先生が中心となって提唱された「共生」(きょうせい)というものを考えるだけでなく実践する時なのだと思います。
 しかしながら「共生」と言われてもなかなか難しいのが現状です。 確かに私たちは、家族や友人などと関わり合いながら共に生きていますし、何か特別なことを想像する必要があるのかと考えてしまします。 彼の震災の時は多くの方がボランティアを行い、記憶に新しいところでは、昨年の台風被害で多くの方がボランティアを行いました。困ったときにお互いに助け合うことはもちろん「共生」であると思います。
 ただ、私はこの「共生」に関しては特別な行為だけではないと思っています。 例えるなら、すれ違いに道を譲ることや電車などで席を譲るような簡単な行いも「共生」であり、お互いに笑顔であいさつを交わす行為でも「共生」だと思っています。
 この「共生」という言葉はたった2文字ですが、非常に奥の深い言葉でもあります。 昔に産業をはじめ多くの技術の進歩によって世の中は便利になりました。 しかし、その反面人と人との繋がり、ご縁の大切さが見直されている昨今の時代だからこそ、このような時には一層の「共生」を考え実践する必要があるのかもしれません。
 ひょっとしたら近い将来はAI(=人工知能)との「共生」も考えられる時代がくるかもしれません。 逆にそのような時代が来ることを楽しみに待ちたいと思います。

合掌

(2020.02)
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恐怖と幸せの先にあるものは?

 気が付けば1月も終わりに近づきました。 年末の除夜の鐘は風が大変強く、雪こそ降らなかったものの今までで1番の寒さで凍えるかと思いました。 筆を持つ手だけは何とか守りましましたが、左手の指は寒さのあまり動かなくなり、心配を重ねた新年の幕開けでしたが、ふたを開けてみれば穏やかな日が続き、善し悪しは別として暖冬となっているようです。
 昨年は「康秀街道」をお読みいただきありがとうございました。 何年たってもなかなか思っていることを文章にすることは難しく、自分で読み返しても反省することも多くあります。 しかし、これも経験とご容赦いただきまして、今年も1年お付き合いいただければ幸いです。
 ところで、新年のごあいさつにて干支にちなみ「子(ねずみ)」=「寝ず身」という当て字から一所懸命に働き、僧侶として働くことに喜びが見いだせるように精進したいと申し上げましたが、早速それが現実となりました。 不幸なことに副住職が不慮の事故に見舞われ、私がいつも以上に休みなく働くことになりました。 全快までは時間がかかるようなので、私が何とか精進したいと思います。 ただ、自分で言うのもおこがましいのですが、昨年は過労により3回ほど高熱を出しましてダウンしてしまいましたので、今年は年齢を言い訳にせず、昨年以上に気を付けたいと思います。

  さて、新しい時代「令和」として初めて迎えたお正月となりましたが、先にお話しした通り大変穏やかで暖かい日が多く、夜の参拝者が心なしか少なく感じたため、逆に元日は大変多くの参拝者がいらしていた気がします。
 もちろんお参りの方は「1年間無事に過ごしたい」という気持ちが中心と思いますが、広義では「令和という新時代を無事に過ごしたい」という気持ちも含めてのお参りと思います。
 錫杖寺でも、会計上は消費税増税による影響はもちろん大きくありますが、やはり「お守りは小銭を1枚握りしめて子どもでも買えるようにしたい」という想いから、金額は一切上げることなくお正月を迎えましたが、子どもたちがお気に入りのお守りを喜んで持ち帰る姿を見ていると、新年早々に温かい気持ちになることができました。 お金には代えがたい何かを得られるというのは、新年早々に幸せなことです。
 話は変わりますが、昨年はあまり干支と仏教的なお話がありませんでしたので、省略いたしましたが、今年の干支である「子」は有名なお話がありますのでご紹介したいと思います。
 ある時、ひとりの男が荒野を歩いていると暴れた大きな象に遭遇しました。 この男は恐怖を感じ象から逃げまわりますが、どこにも身を隠す場所がありませんでした。 しかし、よく見渡すと井戸が1つあり、その傍らには藤の蔓が垂れ下がっていたので、男は蔓を頼りに井戸の中へと身を隠すことにしました。
 すると、その木の根元に黒と白の2匹の鼠が現れて、男がつかまっている蔓の根元を交互にかじりだしました。 この井戸の中には、四方にそれぞれ毒蛇がいて男に噛みつこうとしているだけではなく、井戸の底には毒竜がいて、男が落ちてくるのを待っています。
 男は井戸の底の毒竜や四方の毒蛇だけでなく、蔓を噛みちぎられるかもしれない恐怖でいっぱいでした。 あきらめかけたその時、上から甘い蜜が5滴降ってきて口の中に入りました。 よく見ると、藤の蔓の上には蜂の巣があって、ここから蜂蜜が落ちてきたのです。 男は、甘い蜜の味に魅了され、今置かれている状況はすっかり忘れてしまい、さらに蜂蜜を味わいたいという思いから蔓を揺らしました。
 すると蜂たちが飛び立ち男を刺しました。 そして、突然に井戸の周りから炎が上がり藤は燃えてしまいました。

 これは『仏説譬喩経』に納められている有名な話で、別の「甘い蜜」などの名でご存知の方もいるかもしれません。 このお話は『譬喩経』というお経に納められているので、譬喩が用いられていますので、少々考えてみたいと思います。
 ここでの「ひとりの男」は私たち・「荒野」は私たちの迷いの世界・「大きな象」は無常・「井戸」は私たちの此岸(=迷える人生)・「藤の蔓」は寿命・「黒と白の鼠」は昼(=白鼠)と夜(=黒鼠)で「交互にかじる」は時間の流れ・「毒竜」は死ぬこと・「四方の毒蛇」は四大(地・水・火・風=人間の身体=病苦)・「5滴の蜜」は五欲(食欲・財欲・色欲・名誉欲・睡眠欲)・「蜂が刺す」は邪な心・「炎」は老いや病をそれぞれ表します。
 整理してみますと、私たちは常に「諸行無常」の世界において、生まれた瞬間から死へと向かわざるを得ないのです。それがこの例えの男と同じなのです。
 蔓にしがみつく私たちは、常に日々細くなっていく蔓が切れたら毒竜が待つ死へと向かいますが、蔓につかまっている瞬間でも、病気などの苦しみは隣り合わせなのです。 しかし、そのような瞬間であれ、一時の快楽を得ることで、そのような不安は忘れてしまうのです。 そして、それを求めようとすることで、結果として揺らせば蔓は摩擦により早く切れることになりますし、蜂を刺激すれば当然と刺されて蔓から落下することになります。
 限られた人生というものをどう生きるかはとても大切なことです。 令和という新しい時代になりましたので、心も新たに今年1年、自分の心と相談しながらしっかりと共に精進していきましょう。
 今年もよろしくお願いします。

合掌

(2020.01)
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新年のごあいさつ

 まず初めに、謹んで新しい年を迎えることができましたことを心よりお慶び申し上げます。
 また、新しい元号である令和最初のお正月ということで、この令和という時代がよりよい時代になること、ならびに1年の無事を祈り、錫杖寺では僧侶ならびに関係者が一丸となってご本尊延命地蔵菩薩さまにご祈願をしております。 無事に新年を迎えられたことを慶び、今年1年が昨年よりもよい1年となるようにみなさまもお祈りください。
 今年の干支は子年となります。 ねずみというと、これは当て字になりますが「寝ず身」となり、一所懸命に働くという意味に通じます。 昨今の社会情勢からは「働き方改革」が提唱され、無理に働きすぎで身を亡ぼすことは当然あってはなりません。 しかし、健康で働くことができるということは幸せなことと私は思います。
 昨年はイノシシのように突き進んで働き、結果として大きく体調を崩してしまったことが何度もありましたので、今年は可能な限り無理はせず、僧侶として働くことに喜びが見いだせるように精進したいと思います。
 今年もよろしくお願いします。

合掌

(2020.元旦)
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