康秀街道〜こうしゅうかいどう〜  駒井僧侶による執筆です。月々移り行くお寺のお話をお楽しみ下さい。

悟りの世界を探せ!

 4月とは変わり5月は暑い日が多くなりました。 確かに暦の上では初夏ということで、夏になりますが、すでに真夏日のような気温になることもあり、例年以上に夏の暑さが心配になります。 梅雨明け以降のじめじめした夏の暑さと比較すると、それほど同じ気温でも暑く感じることはありませんが、気温が高いということは日差しも強いということになりますから、知らないうちに日焼けして、半日で頭を真っ赤にしてしまいました。
 今月は、1年に1回の「写経会」がありましたのでお話をしたいと思います。 今回もありがたいことに少ない機会の中でも多くの方のご参加をいただきました。 本来であれば第1週目の土曜日に行うことが多いのですが、さすがに世間ではゴールデンウィークですから、そこは次の週に延期するということでご案内をさせていただきました。
 今回もご縁がありまして、私が写経をさせていただくことになりましたので、少しでも私なりのカラーを出したいと思い、写経の意義などを弘法大師空海などの教えも元にお話をさせていただきましたので、ご紹介したいと思います。
 昨年は、同じく写経を行った5月の原稿で簡単に写経の歴史をお話いたしました。 今回は、この写経でも『般若心経』を真言宗の観点から考えてみたいと思います。
 以前にも真言宗の場合は、一般的な『摩訶般若波羅蜜多心経』に「仏説」という言葉を付けて『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』と呼びお唱えをすることをお話させていただきました。
 この『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』と呼びお唱えをするのは、弘法大師空海の著作である『般若心経秘鍵』(はんにゃしんぎょうひけん)の中でこのお経の題目について説いている部分があるのですが、ここに「仏説摩詞般若波羅蛮多心経」とお大師さまが書いてあることに由来します。
 ちなみに『般若心経秘鍵』(はんにゃしんぎょうひけん)とは、簡単に言ってしまえば、お大師さまの『般若心経』に関する解説書・注釈書くらいに考えてください。 今回は、この『般若心経秘鍵』(はんにゃしんぎょうひけん)について少しお話していきたいと思います。
 この『般若心経秘鍵』(はんにゃしんぎょうひけん)には、大綱序にいてとても有名なお大師さまの言葉が書かれています。
 夫れ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如外に非ず。身を棄てて何か求めん。迷悟我れに在り。則ち発心すれば即ち到る。明暗他に非ず。則ち信修すれば忽ちに証す。哀れなる哉、哀れなる哉、長眠の子。苦しい哉、痛ましい哉、狂酔の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。
 そもそも仏の教えは遥か遠いところにあるわけではなく、心の中にあって近いところにある。 仏の悟りは外にあるわけではないので、自分の身を捨ててどこに求めればよいのでしょう。  迷いや悟りは自分自身の心の中にあるものだから、悟りを得たいという心を起こせば、悟りを得ることができる。  明るい世界(=悟り)や暗い世界(=迷い)もほかにあるわけではなく、自分の中にあるものだから信じて努力をすればすぐに現れる。 悟りの世界を知らずにずっと眠っているとはなんと哀れなことだろう。 迷いの世界で酔いしれることはなんと苦しく痛ましくことだろう。 強烈に酔った者は酔っていない者を笑い、深く眠っている者は目覚めたものを嘲る。
 この文章からは、お大師さまの気持ちを少し感じることができると思います。 つまり、悟りも仏の教えも迷いも苦しみもすべて自分の心の中にあるものだとお大師さまは表しているのです。
 また、この『般若心経秘鍵』(はんにゃしんぎょうひけん)からは、この「般若心経」と「写経」の重要性というのも読み取ることができます。それは、大意序に書かれています。
 一一(いちいち)の声字は歴劫の談にも尽きず。一一(いちいち)の名実は塵滴の仏も極めたもうこと無し。 この故に誦持・講供すれば、即ち苦を抜き楽を与え、修習・思惟すれば、即ち道を得、通を起す。甚深の称、誠に宜しく然るべし。
 1つ1つの声字をあり得ないほどの長い時間をかけて論議しても尽きることはなく、1つ1つの名称や意味は、数えきれないほど多くの仏をもってしても極めることはできない。 そのために「般若心経」をお唱えして、講義して、供養すれば苦から離れて安心を得ることができる。 また「般若心経」を修習して思惟すれば、悟りを得て神通力が身につく。 だからこそ、この「般若心経」は意味が深く称えられているのである。
 つまり、普段用いる「般若心経」(玄奘三蔵訳)では262文字という短い経典ですが、その内容は、1文字ですらとてもありがたいものとお大師さまは表しています。 また、お唱えすることや修習すること、つまり「写経」と考えることができますが、これにより大変ありがたい功徳を得ることができるともお大師さまは表しているのです。
 そして、お大師さまは真言に関しても秘蔵真言分においても1文字の重要性を表しています。
 真言は不思議なり観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み即身に法如を證す。
 真言とはとても不思議なもので、仏さまを心に想って真言をお唱えすれば一切の迷いを取り除いてくれる。 真言の1文字には数えきれないほどの理(=教え)を含んでいるので、真言の力によってこの身このまま成仏できる。 つまり即身成仏できる。
 この「写経会」においては『般若心経』を写経しますが、もちろん私は『般若心経』の1字・1字とすべてが仏さまと思って書いてくださいとお願いをしてきます。 なぜならば、お大師さまのこのような教えに基づいているからです。
 もちろん、難しいことを考えなくとも写経というのは大切な行いであり、修行のひとつでもあります。 ただ、同じ写経を行うにしても「なぜ写経がありがたいのか?」ということを理解したうえで写経に臨むことができたら、違った気持ちで仏さまと向き合うこともできるでしょう。 また、お大師さまの教えの通り、ありがたい功徳を得ることができるでしょう。
 しかし、それは対外的なものではなく、常に内面的なものだということを忘れてはいけません。
 夫れ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如外に非ず。身を棄てて何か求めん。
 ぜひこの言葉を忘れることなく、精進したいものです。

合掌

(2018.05)
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供養の誠ささぐるも・・・

 3月の寒さが嘘のように暖かいというよりは暑い日が多く、過ごしやすい4月となりました。 ただ、気温が高かったということは、その分季節の草花が早く咲き始めてしまい、桜の花はもちろん、藤やつつじなども例年より早く咲きだしてしまいました。 植物というのは非常に正直のため、カレンダー通りとはいきませんので、すでに錫杖寺も青々とした新緑で境内が風の気持ちの良い木陰を作ってくれています。
 今月は毎年のことですが、錫杖寺の行事が2つありましたので紹介したいと思います。
 まずは「茶筅供養」です。 今年は天気が心配でしたが、激しい雨に終始見舞われることはなく、決して良い天気とは言えなかったものの、川口茶道会の先生方を中心にご供養をしていただきました。 近年は、天候に関係なく本堂で行っておりますので、椅子もあるためか多くの先生方や参加者に茶筅を納めて供養していただきました。
 納められた茶筅を見ていると、先の欠けているものや変形しているものなど様々で、この何気ない茶筅ひとつにもそれぞれのストーリーがあるのだろうと勝手ながら想像してしまいました。 以前にもお話したことがありますが、まさにお茶の「一期一会」がこの茶筅ひとつひとつに含まれているのだろうと思うと感慨深いものがあります。
 次に「花まつり」です。 今年の花まつりは、関係各位のご協力のもとに「ステージイベント」と「語り」を法要の前後に入れて、多くの方にお参りにきていただけるように考えて実施しました。 ただ、初めての試みということや、日曜日ながら入学式の前日ということもあり、思ったほどの人ではありませんでしたが、それでも例年以上の方にご参拝をいただきました。
 当日の天気は風が少しありましたが、天気には恵まれ、去年と違い外で実施できました。 この「ステージイベント」ですが、出演してくれた子どもたちは可愛らしく、元気に歌って踊って盛り上げてくれました。 また「語り」として、小河知夏さんにいくつかの絵本やお釈迦さまの生涯を綴ったパネルシアターをお話していただきましたが、さすがは専門家でした。
 声優の方とお話するといつも思うのですが、どうしてあれだけ多くの声が出せるのか不思議で仕方ないのです。 いつか寺子屋で使いたいと思っている紙芝居を練習したことがあるのですが、とてもひとりで多くの声は出せず、子どもの声となるとさらにハードルは高く、難しいと思った記憶しかありません。 でも、いつか少しでもできるようになったら披露したいという思いもありますが、だいぶ時間がかかりそうです。

 さて、今月はせっかくなので「茶筅供養」と「花まつり」という言葉より「供養」をキーワードとして少しお話をしたいと思います。 まず、何気なく「供養」という言葉を使いますが、そもそもこの「供養」とはどのようなものか考えてみたいと思います。
 まず「供養」ですが、漢字から考えると「人が共に養う」ということになります。 ただ、仏さまに対して我々が養うという考え方は適当でないかもしれません。 ただ、そこは「共に養う」ということですので、仏さまは我々を日々守ることで養うと考えることができ、我々は仏さまに日々感謝の気持ちをもって施しをすることで養うと考えることができます。 そう考えれば「共に養う」というのは、簡単に理解することができ「供養」というものが少し身近になるでしょう。  錫杖寺の第35世江連政雄大僧正の作ったご詠歌「追善供養和讃」の中にも「供養」という言葉が使われています。
 供養の誠ささぐるも 受くるも共にみ仏の 恵みの光につつまれて きよき集いの尊しや
 供養の誠(誠意)をささげる人も受ける人(ここでは仏さま)も、共に仏さまの恵みの光につつまれて、今ここにいるすべての人や仏さまがみな尊い存在である。 つまり「供養」を行うことそのものが大変尊い行いであり、それを行う人も大変尊い存在であるのです。
 「供養」というのは、必ずしもお経をお唱えしなければならないということはありません。 大切の仏さまの生前の様子を忘れることなく覚えておくことももちろん「供養」だと思います。
 身の丈に合った「供養」というものを探し、ぜひ1日1回でも「供養」の時間を作っていただければ仏さまもきっと喜ぶと思います。

合掌

(2018.04)
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〜ハルカゼ〜

 3月も終わりに近づくにつれて暖かい日が多くなってきました。 実際は、暖かいという表現よりも暑いという表現の方が適切かもしれませんが、先日までの寒さを思うと暖かいという言葉を使いたい気持ちになります。
 暑さ寒さも彼岸までとは昔からよく言いましたが、このお彼岸のお中日である春分の日は、なんと寒い雨から雪と信じられない天気になりました。 しかし、何年か前には4月にも雪が降りましたので、特別不思議な感じはしませんでしたが、気持ちの安らぐ春は思った通りに来てくれないようです。 このままだと、今年の夏は暑くなりそうで心配です。
 今月は、まず年中行事の「春彼岸会法要」がありましたので、ご紹介したいと思います。 先ほどお話したように、今年の春分の日は冷たい雨から雪へと天気が変わり、春分の日としては珍しい天気でした。 それでもありがたいことに、晴天に比べれば少ないかもしれませんが、多くの人がご参拝に足を運んでくれました。
 この「春彼岸会法要」でお唱えしてもらう「彼岸会和讃」の中に「暑さ寒さも彼岸までよろず程よく偏らぬ調和の相中道の理にふさわしき季節なる」という歌詞があります。 今回のお彼岸はまさにその通りで、よくこの歌詞を考えさせられる春分の日となりました。
 私たちは、寒い日が続くと早く暖かくなってほしいと願い、逆に暑い日が続くと早く涼しくなってほしいと願います。 これは、執着から起こる偏った心と考えることができます。 しかし、偏った天候が続けば、育つ植物も育たなくなり、干ばつなども起こり、自然災害によって私たちの生活は非常に苦しいものになります。
 もちろん、まったく執着をなくすというのは無理な話なので、この場合は偏らず両方を認めればよいと思います。 例えば、雨に降ってほしくないと願っても雨が降り続いた場合、迎えた晴天は、いつもの晴天以上にとてもありがたく感じることができると思います。 今回は雪の春分の日でしたので、その分暖かくなって桜が咲けば、いつも以上に桜の花と暖かい日をありがたく感じることができるでしょう。
 偏らない心を持つことと実践することを上記の歌詞にもありますが「中道」(ちゅうどう)と言い、仏教では非常に大切な教えのひとつとされています。

 さて、話は変わりますが、今月は錫杖寺で『大般若経転読会』が行われました。 ただ『大般若経転読会』と言われてもよく分からい方のほうがほとんどだと思います。
 この『大般若経転読会』の『大般若経』とは、西遊記で知られる玄奘三蔵(三蔵法師)が天竺より持ち帰り翻訳した数あるお経の中のひとつで、600巻からなる経典のことを表します。 このお経をお唱えして、国家安穏はもちろん五穀豊穣や厄除けなどを祈る法要のことを『大般若経転読会』と言います。 ただ、これだけの膨大な量のお経になりますので、すべてをお唱えするのは非常に困難なために「転読」を行います。 この「転読」とは簡単に説明としますと省略してお唱えすることです。 方法としては、経典を掲げてパラパラとめくるようにします。 ちなみに、このお経を「転読」するときに発生する風は「般若の梵風」と言われ、この風にあたることでこのお経の功徳を授かることができると伝えられています。

 「般若の梵風」と先ほどお話をしましたが、この季節は暖かい南風が気持ちの良い季節です。 この季節の風は特に「春風」と言われますが、この時期に「春風」という言葉を使うと有名な高浜虚子の句を思い出す方も多いと思います。
 春風や闘志いだきて丘に立つ
 これから新しい生活を迎える方も多いと思います。 新生活は苦労の連続かもしれませんが、世の中に偏ったものは存在しません。 苦しいことや辛いことにすべて偏ってはいないのです。
 ぜひ「中道」という言葉をしっかりと胸に刻み、ともに強い気持ちで精進しましょう。

合掌

(2018.03)
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115京分の1の確率

 寒い日が続いた2月も終わろうとしています。 ここ関東では、1月のような大雪に見舞われることはありませんでしたが、日本各地に目を向けてみると、大変な雪の災害もありました。 これから3月になり暖かい日も少しずつ増えるとありがたいのですが、今年の春はまだ先のようです。
 今月は、錫杖寺の年中行事「節分会大譲摩供修行」がありましたので紹介したいと思います。 今年は曜日が土曜日ということもあり、例年よりも多くの方のご参拝をいただきました。前日に雪が降ったものの、当日はまったく影響なく、大変よい1日となりました。 土曜日ということを考えると、子どもたちの参拝が少なかったことが残念でしたが、それでも多くの人がお参りにきてくれたことを考えれば、ありがたい限りです。
 恒例となりました豆まきは、今年は副住職のかけ声とともに行いました。 今年は私も副住職のまいた豆にあたることができたので、今年はよいことがある予感がします。

 話は変わりますが、今月は韓国の平昌で行われました冬季オリンピックで世界中が盛り上がったことと思います。 素晴らしいことに、多くの日本選手も活躍をして、多くのメダルを獲得していました。
 私個人としては、埼玉に生まれて埼玉で育ったため、雪になじみがなく、あまり小さいころから冬のスポーツをする機会はなかったのですが、興味を持った競技ももちろんありました。 3月は続いてパラリンピックが行われますが、ここでも多くの日本選手が活躍してくれると思います。
 ちなみに興味を持ったのは競技ももちろんですが、日本選手のインタビューなどの受け答えも非常に興味を持ちました。 それは、メダルを獲得した選手だけでなく、出場した選手がよく感謝の言葉を口にしていることです。
 感謝の気持ちを表す言葉として日本では「ありがとう」という言葉が用いられます。 私もよく「康秀街道」の中で多用していますが、この「ありがとう」という言葉は、とても美しい言葉とされています。 そもそも「ありがとう」は「有り難し」という言葉に由来しますので、意味を考えれば「あることが難しい」=「めったにない」という意味になります。
 実はこの「ありがとう」=「有り難し」は仏教にも深く関係しています。 お釈迦さまの教え『仏説譬喩経』の中に「盲亀浮木」(もうきふぼく)という有名なお話がありますので紹介したいと思います。
 ある時お釈迦さまが弟子の阿難に「人間に生まれたことをどのように思っているか?」と質問しました。 すると阿難は「大変うれしく思っています」と答えました。
 続けてお釈迦さまは「ではどれくらいうれしいのか?」と質問しましたが阿難は答えに困ってしまいました。 するとお釈迦さまは例え話を始めました。
 果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいて、その亀は、100年に1度だけ海面に顔を出します。 その海には1本の丸太が浮いていて、その丸太の真ん中には小さい穴があります。 その丸太は波に揺られて海をさまよっています。 100年に1度だけ海面に顔を出す目の見えない亀が、浮かび上がった拍子に丸太の穴に顔を入れることが可能でしょうか?
 阿難はこの話に驚いて、お釈迦さまに「そんなことは考えられません」と答えました。 しかし、お釈迦さまが「では、絶対にないと言い切れるか?」と念を押してきたので「何億年・何兆年・何京年という年月の間にはあるかもしれませんが、ないといってもよいくらい難しいことです」と答えました。 するとお釈迦さまは「ところが、私たちが人間に生まれることは、その亀が丸太の穴に頭を入れることが有るよりも難しいことなのだ」と阿難に説きました。

 「有り難い」というのはこれほど貴重なこととお釈迦さまは説いています。 そう考えると、まず人として生を受けるのがどれほど難しく、さらに人と人とのご縁がどれほど貴重なものかは考えられないほどの数字になると思います。
 普段の当たり前の生活のなかで、感謝を見つけることは難しいと思います。 しかし、オリンピック選手のように日々の生活の中に感謝の気持ちを持つことができれば、私たちもオリンピック選手と同じレベルのものを共有できるということになります。 メダリストと同じくらい感謝の気持ちを持つことができれば、きっと私たちもメダリストです。
 お釈迦さまの最期の言葉「怠ることなく精進せよ」これを感謝の気持ちをもって実践できれば、きっとひとりひとりがメダリストとなることができます。
 人として生を受けたこと、多くの人とのご縁に感謝して心安らかにお彼岸を迎えましょう。

合掌

(2018.02)
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反省だけなら犬でもできる!

 今年は年明けから寒い日が続きました。 ここ川口市からそれほど遠くないさいたま市でも、史上最低気温となる氷点下9.8度という気温を記録し、暑さには慣れている我々は寒さには弱く、雪国の人からすれば珍しいことではないかもしれませんが「凍てつく」という表現が当てはまるような日もありました。 この寒さもなかなか和らぐこともなく、この冬は寒い日が続くと思うと少し憂鬱な気持ちになります。
 また、20センチを超えるような積雪もあり、錫杖寺ではまだまだ日陰の雪が融けずになかなか困っていますが、それでも信心深い方はご朱印を求めお参りに来山し、厄払いのご祈祷に多くの方が来山します。
 今年も少しでも錫杖寺のことや仏教のことを中心に、できるだけわかりやすくこの「康秀街道」にて伝えていきたいと思いますのでよろしくお願いします。
 今年のお正月はとても寒い日でしたが、それでもありがたいことに多くの方のご参拝をいただきました。 太陽が当たれば非常に暖かいのですが、テントの奥は日が当たらないため、手を温めながら朱印やお札やお守りを書いていました。 こういう寒いときには甘酒が恋しくなるものですが、これは参拝いただいている方もみな同じ気持ちのようで、昨年より全体量を増やしたのですがそれでも午前中に甘酒はなくなってしまいました。

 さて、毎回最初のお話は干支にちなんだお話をしているので、今回も干支の「戌」にならい「犬」に関するお話をしたいと思います。 あまり仏教と犬が結びついている話は多くないのですが、今回も仏教説話集 『ジャータカ』 に納められている代表的なものを紹介したいと思います。
 むかしむかし、ある墓地に多くの野良犬が住んでいて、白色の犬の王がその群れを束ねていました。
 ある時、その国王の愛馬の革の手綱が食べられてしまうという事件が起こってしまいました。 この国王はかんしゃく持ちであったので、すぐに犯人捜しを始めたところ多くの犬の足跡が見つかりました。
 家来たちは国王に 「犯人はどうやら犬のようです、野艮犬の仕業でしょう」 と報告したところ、国王は直ちに 「ならばすべての野艮犬を殺してしまえ」 と命令を出しました。
 野良犬たちは国王の命令により無差別に殺されていきました。 しかし、犬の王も黙ってそれを見過ごすわけにはいきません。 犬の王は仲間たちに問いただしました。 しかし、当然のことながら城の中は警備も厳重で、とても忍び込めるような状況ではありません。 仲間たちは犬の王に 「城内の国王の犬が犯人だろう」 と伝えました。
 仲間の話を信じた犬の王はひとりで城へ乗り込み、国王と直接話すこととなりました。
 そこで犬の王は 「なぜ我々を殺そうとするのですか?」 と尋ねたところ、国王は 「わたしの愛馬の手耶を食ったからだ。 だからすべての大を殺せと命じた」 と答えました。
 すかさず犬の王は 「それは国の全ての犬ですか?」 と尋ねたところ、国王は 「城内の犬は別だ」 と答えました。 犬の王は続けて 「それはおかしい話です。国王はご自分の愛馬や愛犬がかわいいばかりに、王としての道を見失っています。一国の主たるもの、物事を判断するには、つりあった天秤のようにどちらにも傾かない公平さがなければなりません。血統の正しい王の犬はそれだけで罰を受けることなく、野良犬は殺される。血統や毛並みだけで罰を受けずに弱いものだけが殺される。果たしてこれが国王としての判断なのですか?」 と強く訴えました。
 しかしこれを聞いた国王も黙ってはいられません。 犬の王に 「では誰が犯人なのだ」 と強く尋ねました。 犬の王は間髪入れずに 「国王の愛犬です」 と答えました。 すると国王もただちに 「証拠でもあるのか」 と声を荒げました。 しかし、犬の王は冷静に 「では証拠をお見せしますので、国王の愛犬を連れてきてください」 とお願いしました。 そして 「バターと薬草を食べさせてください」 と国王にお願いしました。
 犬の王に言われるがままに国王の愛犬にバターと薬草を食べさせたところ、国王の愛犬は革を大量に吐き出しました。 その革はなんと愛馬の手綱だったのです。
 これにより国王は改心して、野良犬も同等に扱うことを決めました。 ちなみにこの犬の王は釈尊でありました。

 人間どうしても自分の都合のよい方向に物事を考えたくなるものです。 しかしながら、それが許されるということはありません。 まして、国王のように国を治める立場となればなおさらです。
 今年は「戌」ですが、この「戌」の守り本尊さまは「阿弥陀如来」です。 この「阿弥陀如来」は一切差別をすることなくすべてを平等に扱います。 もちろん、六道輪廻の地獄から浄土にいるすべてのものを平等に扱い、手を差し伸べてくれる仏さまなのです。
 もし昨年の自分の行動を振り返り、この話のように自分の思い込みや自分勝手な行動をしてしまったならば、今年一年は反省して精進すればきっと「阿弥陀如来」が力になってくれます。 共に一年間しっかりと精進していきましょう。

合掌

(2018.01)
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新年のごあいさつ

 まず初めに、謹んで新しい年を迎えることができましたことを心よりお慶び申し上げます。 今年も1年の無事を祈り、錫杖寺では僧侶ならびに関係者が一丸となってご本尊延命地蔵菩薩さまにご祈願をしております。 無事に新年を迎えられたことを慶び、今年1年が昨年よりもよい1年となるようにみなさまもお祈りください。
 今年は戌年になります。 戌=犬とうことで、イメージを考えますと昔ばなし「桃太郎」にも登場する十二支の中では大変親しみのある動物だと思います。
 犬というと「ワン」という鳴き声を思い浮かべると思いますが、この犬の「ワン」という鳴き声にちなんで、今年は目標を設定して「ナンバーワン」(=No.1)を目指してみるのもよいでしょう。
 錫杖寺にも時々犬の散歩コースとしてお参りに来てくれる方がいます。犬が人間にとってよきパートナーであるように、錫杖寺もみなさまにとってよきパートナーでいられるよう、今年も努めてまいります。
 本年もどうぞよろしくお願いします。

合掌

(2018.元旦)
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