康秀街道~こうしゅうかいどう~  駒井僧侶による執筆です。月々移り行くお寺のお話をお楽しみ下さい。

お知恵を拝借!?

 11月も終わりに近づきいよいよ今年も最後の月となります。 まもなく師走と言われる12月ですが、個人的には11月があまりの忙しさであったため、2か月間走り続けることになりそうです。
 例年ですと寒く感じる日も多いのですが、今年は木枯らし1号も吹くことがなさそうで、暖冬傾向とのことです。 確かに今年の大雪や寒さを考えればありがたく感じますが、やはり冬は寒いものであってほしいとの思いもあります。
 これは、清少納言が『枕草子』に「冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず」と残していますが、やはり冬は寒いからこそ風情を感じることもできるのでしょう。 ただ、私は暑さには比較的強いのですが、寒さはそれほど強いわけではないので、確かに冬は寒くあってほしいのですが、程よい寒さだと嬉しいです。
 今月は、錫杖寺の行事というよりは、川口市の行事になりますが「日光御成道まつり」がありましたのでご紹介したいと思います。
 今回で3回目となるこのお祭りですが、川口市の4年に1度の行事で、今年は大変な晴天に恵まれ、11月とは思えない暖かさの中での開催でした。今回は将軍役に原田龍二さん、御成姫の村田千宏さん・阿部寿未玲さん・佐藤はるなさん、広報大使の真島茂樹さんをはじめ、多くの来賓の方に錫杖寺にきていただき、川口茶道会によるお茶のご接待をいただきました。 大変残念でしたが、私は仕事の都合上、前回のようにカメラを片手に飛び回れることできず、おまつりの様子は聞こえてきたアナウンスや音楽でしか分かりませんが、とても賑やかなおまつりだったようです。

 さて話は変わりますが、前回お話しできなかった『今昔物語集巻第十七第三十三話-比叡の山の僧、虚空蔵の助けによりて智を得る語』についてお話したいと思います。
 今は昔、比叡山に若い僧侶がいました。 出家してから学問の志はありましたが、遊び好きであまり勉強をせず『法華経』しか知りませんでした。 ただ、学問の志はあるために嵯峨の法輪寺の虚空蔵菩薩のお参りは欠かしませんでした。
 9月詣に出向き、急ぎ帰らずに知り合いと話し込んでいると、日が暮れて夜になってしまいました。 そこで知り合いの家を訪ねましたが、田舎に行ってしまい留守でした。 すると、立派なお屋敷の門前にひとりの女が立っていました。
 法輪寺へお参りするも夜になってしまい帰れない旨を伝え、一晩世話になりたいとお願いしたところ快く引き受けてくれました。 夜も更けて僧侶はふと部屋から外に出ると明かりがついている部屋があったため覗いてみました。 すると何人か女がいましたが、その中心に信じがたい絶世の美女が本を読んでいました。
 あまりの美しさに僧侶は我を忘れ部屋に忍び込みましたが、女たちは落ち着いた様子で特に変わりはありませんでした。 この美しい女は去年の春先に夫を亡くしたばかりで、求婚する男は多くても条件に合う人以外は結婚する気はなくひとりでいたのでした。
 美しい女は、僧侶だからここで一晩お世話をした旨を伝えて『法華経』を暗記しているかをたずねました。 僧侶は素直に遊び惚けていたため暗記できていないと答えると、女たちは暗記してからまたここに来たら望みをかなえてあげると言い、僧侶はこれを聞いて明け方早々に比叡山へと帰っていきました。
 僧侶は比叡山に戻り、20日間の猛勉強を経て再び美しい女のお屋敷を訪ねました。しかし、美しい女は『法華経』を暗記した程度では、2人の関係はこの先長続きすることはないので、本当に私のことを想っているのならば3年間比叡山にこもって日夜猛勉強を重ねて一人前の優秀な僧侶になったらその想いを受けとめると話しました。 そして、3年の間は文通することも勉強に専念できるように支援することも約束したのでした。
 僧侶はこれを聞き、会いたい気持ちを抑えて猛勉強に励み、3年待たずして一人前の優秀な僧侶となり、さらに精進して3年たったころには非常に優れて名の知れた僧侶となっていました。
 約束の3年がたち一人前の僧侶となったので、法輪寺のお参りの後に美しい女のお屋敷を訪ねました。 几帳越しに多くの経典の内容を問われましたが、僧侶はすべてを完璧に返答し、やたらと仏道に詳しいこの美しい女に大いに感謝していました。 夜になり、この美しい女の部屋に入りお互い話をしているうちに僧侶は寝てしまいました。ふと目が覚めるとススキの生えた野原に寝ていました。 あたりを見回すも何もなく、よくよく見れば人気のない嵯峨野の東渡の野原ということがわかりました。
 ここから法輪寺は近いのでお参りして夜を明かそうと思ってお堂の中で一心に念じているとひとりの小僧がでてきました。 この小僧は、タヌキやキツネが化かしたのではなく、才能はあっても遊び惚けて学問をおろそかにしているのに、いつも都合よくお願い事をしている僧侶をどのようにしたら良い方向へ導けるか考えたところ、下心があったために美しい女を利用したことを告げられました。
 僧侶はこれを聞き、虚空蔵菩薩が自分を助けるために美しい女に姿を変えて導いてくれてと思い、涙を流して自分の行動を悔やみ、比叡山にもどりさらに精進を重ね大変優秀な僧侶になりました。

 虚空蔵菩薩をお参りすれば智慧を授かることはできます。 しかし、方法はどうであれ、お参りだけで努力することなくしては、智慧を授かることはできません。
 この話、私にとっても他人事ではありません。 日々努力をすることを忘れず、今年がよい1年であったと思えるように12月も精進したいと思います。

合掌

(2018.11)
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信仰が仏をつくるのか?

 10月になり少しずつですが秋の気配を感じられるようになってきました。 稀な天候で真夏日もあったものの、朝晩はだんだんと涼しいから寒いという言葉が行き交うようになり、野山の紅葉の便りが聞こえると、季節が変わったことを感じられずにはいられません。 二十四節気では「霜降」(そうこう)にあたる季節で、字の通りですが紅葉だけでなく霜の便りも届くようになりそうです。
 今月は、年に1回ですが錫杖寺の「写仏会」がありましたのでお話をしたいと思います。 昨年は急遽、副住職から写仏を行うように言われ、私が講師をさせていただきましたが、今年は副住職が講師として「写仏」を行いました。
 錫杖寺の「写仏会」は十三仏を順番に描いていますので、今回は33回忌の守り本尊である「虚空蔵菩薩」を描いていただきました。 私は仕事の都合でほとんど参加できませんでしたが、初めて参加していただいた方もとても多く、少しでも「写仏」の魅力が伝わったのならば嬉しい限りです。
 さて、せっかくの機会ですので、今月はお時間をいただいて「虚空蔵菩薩」について少しお話をしたいと思います。 この「虚空蔵菩薩」ですが、錫杖寺の本尊「地蔵菩薩」や「観音菩薩」または「不動明王」などのように広く一般的な信仰は多くない仏さまです。 しかし、本来であれば「地蔵菩薩」と共に「虚空蔵菩薩」がペアで信仰されてもおかしくないのです。
 これは「地蔵菩薩」のサンスクリット名が「クシティガルバ」(=大地を蔵する者)という意味になり、これに対し漢字からも読み取れますが「虚空蔵菩薩」のサンスクリット名が「アーカーシャガルバ」(=虚空を蔵する者)という意味になり、大地に対して虚空となるからです。 ちなみに「虚空」を補足して説明すると、万物が存在する広大無辺な空間(≒宇宙空間)と考えてください。 つまり、万物が存在する広大無辺な空間を蔵する仏さまということになります。簡単に言い換えれば「この世の全てを持ち合わせる仏さま」と言えるのです。
 京都ではよく耳にしますが「十三参り」という風習があります。 これは13歳になった子どもが嵐山にある法輪寺のご本尊さまである「虚空蔵菩薩」にお参りをして智慧を授かるという風習です。 この「十三参り」は、渡月橋を渡り終わるまで振り返ってしまってはせっかく授かった智慧を失ってしまうという伝承があり、子どもたちにとってみれば、好奇心と我慢を試される風習でもあります。 人間の心情として、怖いもの見たさではありませんが「ダメ」と言われたものに関して、しっかり自我をコントロールできれば、大人として迎えられるような意味合いもあるのでしょう。
 ちなみにこの法輪寺の虚空蔵菩薩は古くから有名な仏さまで 『今昔物語集巻第十七第三十三話-比叡の山の僧、虚空蔵の助けによりて智を得る語』 という話にも登場します。 この話は、虚空蔵菩薩が僧侶の色欲を使って正しい道に改めるとても面白い話なので、また改めて紹介したいと思います。
 話は変わりますが、今月は山梨県甲州市にあります真言宗智山派の大善寺というお寺にお参りをさせていただきました。 なかなか錫杖寺以外の自由な時間がないので、貴重なご本尊さまである「薬師如来」(重要文化財)の御開帳に合わせてお参りできるかわからなかったのですが、今回は時間を作ることができ、お参りすることができました。
 たまたま今年の御開帳は、お寺の開山1,300年ということもあり、貴重な畳12帖ほどのお軸の「不動明王」を拝見しお参りすることもでき、素晴らしい1日を過ごすことができました。 また、大変多くの参拝者で山内は賑わっておりましたが、お檀家さんと思われる方の協力で気持ちよくお参りもできました。
 ちなみに「薬師如来」というと左手に薬壺(やっこ)と呼ばれる薬の入った壺を持つのが一般的ですが、この大善寺のご本尊さまの「薬師如来」は葡萄を持っています。
 確かに、山梨県甲州市といえばワインと言われるほど葡萄が有名な場所です。 葡萄を持つということは、お経に説かれている訳ではありません。 しかし、古くから地元の人々に信仰され現在に至っている仏さまです。 つまり、仏さまの信仰は、経典に説かれているものが全てではないのです。 仏さまに救われたいと願う人々の気持ちや想いが、時に経典に説かれている以上の仏さまという形になって表れるのです。
 貴重なご本尊さまだけでなく、信仰というものの一端を見ることができたとてもよい1日でした。

合掌

(2018.10)
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資格よりも心だと信じて・・・

 上旬は先月の暑さを引き継ぎ、なかなか秋を迎える準備ができていないのではないかと心配でしたが、やはりお彼岸を過ぎるころには涼しい日が多くなってきました。 ここでは涼しいと表現をいたしましたが、体感としてはこの夏の猛烈な暑さの反動か肌寒く感じるくらいです。 しかも、今月は曇りや雨の日が多く、ほとんど晴れの日がありませんでしたので、なおさら寒さを感じたかもしれません。 夏からの気温差が大きいと「夏バテ」ならぬ「秋バテ」というものもあるようなので体調管理には気を付けたいところです。
 まず今月は「秋彼岸法要」がありましたので、お話したいと思います。 法要の当日は、雨の多かった9月では貴重な快晴の日だったこと、連休の中日にあたったことなどもあり、大変多くの方にお参りをいただくことができました。 法要も、多くの方にお堂の中にあがっていただきご供養をしていただきました。
 以前もお話したことがありますが、多くの方に供養してもらえるということは、多くの方が焼香そしてくれる。 これにより、多くの香りでお堂の中が満ちることになりますので、普段はなかなか感じられないような素晴らしい香りで満たされた空間になりました。
 よく京都や奈良などの歴史のある寺院にお参りをすると、特別にお香をたいていなくてもよい香りを感じることができますが、これは非常に長い年月の積み重ねにより完成されるものです。 いつか錫杖寺のお堂も長い年月の中でお香の香りとともに歴史を刻んでいければさらに素敵な寺院になれるような気がします。

 話は変わりますが、今月は私も機会がありまして地元の公民館での写経講座の先生をさせていただく機会がありました。 正式には先月からの続きで全4回の講座です。 錫杖寺でも写経を行っていますので、特に難しく考えてはいませんでしたが、もちろん多少の緊張はありました。
 なぜ緊張があったかというと、地元ということもありますが、錫杖寺での写経とは違い、参加者の中には真言宗以外の方はもちろん、仏教徒ではない方もいるかもしれなかったからです。 さらに、公民館の市民講座ですから、そこは宗教色を可能な限り排除しつつもやはり興味があって講座に参加いただいた以上、少しでも仏教に興味をもってほしいという個人的な願いもあり、それをどのように伝えたらよいか非常に難しかったのです。
 実際に4回の中では、メインは写経ですが、お経の話や『般若心経』の解説はもちろん、たくさんの仏教に関する話や身近な話などをさせていただき、市民講座らしく、かしこまり過ぎない講座を行うことができました。
 このように、写経などの行為などを通じて行うことももちろんありますが、広く仏教を広める行為を「布教」と言います。 今回の市民講座はまさに「布教」と考えてもよいでしょう。 この「布教」ですが、起源をたどれば釈尊がご説法を行いながら各地を遊説したことになります。 ちなみに「布教」の「布」とは「広く」という意味で「教」とは仏の教えですので、簡単に考えれば仏の教えを広めるという意味になります。
 では、この「布教」という言葉と同じような言葉として用いることがありますが「法話」との違いを考えてみたいと思います。 錫杖寺での「大施餓鬼法要」では、「法話」として先生にお話をしていただいています。 この「法話」の「法」というのは仏教の教えであり「話」というのは「お話」ですので、簡単に考えれば仏教の教えをお話するという意味になります。
 この2つの言葉の意味だけを考えれば、大きな差はありません。 しかし、細かく考えると違いはあります。 まず「布教」というのは、仏教を全く知らない人たちに仏教そのもの(=仏さまの教え)を広めることを指しますが、これに対して「法話」というのは、すでに仏教的な知識がある人たちに対してさらに分かりやすく仏さまの教えを広めることを指すのです。
 そのため、この「布教」という行為は大変難しいものなのです。 真言宗智山派では「布教師」という資格がありますが、この資格も3段階に分かれており、残念ながら私はこの資格を持っていません。
 ただ、資格はなくても大切なのは釈尊の遺志やお大師さまの遺志を継ぐ心だと思っています。 僧侶として広く「仏教」を広めるひとりでもあります。 この「康秀街道~こうしゅうかいどう~」も10年目のスタートとなりますが、少しでも「布教」となるよう精進していきたいと思いますので引き続き応援よろしくお願いします。

合掌

(2018.09)
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声が音符を作るのか?お経は音楽を作るのか?

 先月の猛暑がこの8月も続き、とても「暑い」という言葉だけが耳に残るような8月でした。 お盆も過ぎて「残暑」という言葉を使う機会も増えてきましたが、今年の残暑はかなり厳しいものとなりそうです。 お盆も過ぎれば錫杖寺でもツクツクボウシが鳴き始めるのですが、この暑さの影響かあまりセミの鳴き声を耳にすることがありません。
 ちなみに、このツクツクボウシですが、鳴き方が独特のため、人によって全く聞こえ方が違うようで、音に表すのが難しいようです。 鳴いているセミは同じなのに聞き手によって異なる鳴き声に聞こえるのはとても不思議な感じがします。
 今月は「大施餓鬼法要」と共に、錫杖寺の夏の大行事になりました「錫杖寺寺子屋錫門キッズ」を中心にお話をしたいと思います。
 今回は錫杖寺の受付のミスにより、大変申し訳ないことに定員50人に対しまして57人という人数での開催となりました。 キャンセル待ちの子どもたちのことを考えますと申し訳ない気持ちでいっぱいです。 キャンセル待ちの子どもたちがいる以上、あってはならないことであり、まずもって錫杖寺を代表してお詫び申し上げます。
 人数が多くなるということは、それだけ例年以上に気配り・目配りをして臨まなければなりませんし、責任も重いものになりますが、ありがたいことに多くの卒業生がお手伝いにきてくれて、多くの作業をしてくれました。 限られた人数での運営に不安もありましたが、我々より年の近い「お兄さん」や「お姉さん」が身近にいることで、子どもたちも緊張せずに臨めたかもしれません。

 内容に関しては、大きな変更なく、子どもたちのお楽しみの「花火」や「きもだめし」はもちろん、寺子屋という観点から修行の一環として「護摩修行」や「瞑想」や「写経」の時間は外しませんでした。
 ただ、今回初めての試みとして「紙芝居」を取り入れることにしました。 内容は「小僧さんの地獄めぐり」というお話で、地獄に関する内容が生々しい絵で描かれています。 そのお話を我々ではなく、語り師の小河知夏さんが語り、さらにはライブスペースキャバリーノさんの音響の演出がありました。 紙芝居の内容を知っている私でも、それを薄暗くした本堂で聞くわけですから、その内容の知らない子どもたちには恐怖だったかもしれません。
 子どもたちの感想文の中には「ぞくぞくした」とありましたが、私も体温が下がっていく気がしました。 映像ではない生の声とピアノの演奏というのは、不思議と心の奥深くまで浸透していくような感じで、私にとっても初めての体験でした。
 当日は天気が心配されましたので、急遽予定を変更し、まだ薄暗い中での「花火」などプラグラムの変更をしましたが、トラブルもなく無事に過ごすことができました。 なかなか夜は寝られなかったり、正座がとても辛かったり、57人それぞれの想いがあると思いますが、それも含めて2日間という短い時間でもひと夏の想い出・平成最後の夏の想い出・人生の想い出として心に刻んでいただければ嬉しく思います。
 さて、先にも少しお話いたしましたが、生の声やピアノの音などは意識せずとも自然に心の奥まで浸透していくような感じがします。 これは、やはり「音」の持つ素晴らしさであると私は思います。 これは、単に私が音楽を好きということかもしれませんが、音での表現というのは大変すばらしいものがあると思います。
 例えば、私も僧侶としてお経をお唱えします。 このお経ですが、同じ『般若心経』をお唱えするとしても、私は実は音程をその場面で使い分けています。 それは、ご祈祷のような場面やご葬儀のような場面では、同じ音ではお唱えできないと考えているからです。
 また、音の組み合わせで和音ができますが、これも「協和音」や「不協和音」のように変化します。 これをお経に当てはめて考えてみましょう。 先月の「大施餓鬼法要」のように僧侶が複数でお経をお唱えする場合、個々に思う音程でお唱えしたならば、それは多くの音が集まりすぎで「協和音」にはならないと思います。 どちらかと言えば、お経なのに「不協和音」として聞こえてしまうかもしれません。 そのために、複数の僧侶でお経をお唱えする場合は、必ず「経頭」(きょうとう)と言い音頭をとる人がいるのです。 この「経頭」の唱えた声をもとに同じ音の高さや声の大きさで、お経が揃うようにしなければならないのです。
 では、今回の寺子屋でこの「音」について考えてみたいと思います。 もちろんこの寺子屋でもお経をお唱えする場面は多くありました。 子どもたちは男女も学年もバラバラですし、男の子ならば声変わりのしている子もいたでしょう。 でも、不思議なことに、初めて練習でお唱えした時と、最後の修了式でお唱えした時では聞こえ方が違います。 読んでいるお経は同じものですが、音が非常にきれいに聞こえます。
 ではなぜそのように聞こえるのかというと、実際のところはお唱えする回数が増えた分、慣れが発生したからでしょう。 しかし、慣れだけでは間違えずにお唱えすることはできても「協和音」のようにお唱えすることはできないと思います。 それに、声の高さや大きさを揃えてお唱えする必要性を教えていないのです。 ただ教えたことは「一生懸命お唱えすること」のみです。 これが寺子屋のすばらしさでもあると思います。
 一生懸命お唱えすることで、気持ちがひとつになり、その気持ちが声を通して「協和音」を生み出すのです。 つまり、心を合わせて仏さまに相対することができるということなのです。
 私は音楽に関しては大きな知識を持ち合わせているわけではありません。 しかし、今回の寺子屋の子どもたちの「協和音」から学んだ一生懸命お唱えする純粋な気持ちを初心として忘れることなく、これからも精進していきたいと思います。

合掌

(2018.08)
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~ 7 1 0 ~

 まず、西日本での平成30年7月豪雨災害にて被災されました方々に心よりのお見舞いをいたしますとともに、お亡くなりになられました方々へのご冥福を衷心よりお祈りいたします。 また、1日も早い復興をご本尊地蔵菩薩とともにお祈り申し上げます。
 ここ関東でもこの7月は異常と思えるような暑さとなり、埼玉県熊谷市では日本における過去最高気温となる41.1度(2018年7月30日現在)を記録し、ここ川口でも過去に例を見ないような暑さを感じました。
 先月にも梅雨明けが早い分、夏の暑さが不安と書きましたが、悪い予感が的中してしまいました。 8月もまだ暑い日が続きそうなので体調には気を付けなければいけません。
 今月は錫杖寺の夏の大行事になります「大施餓鬼法要」がありましたのでお話したいと思います。 前日の23日が日本の過去最高気温を記録した日だったことや、連日大変暑い日が続いていたので、例年よりは少ないお参りでしたが、それでも遠路よりお参りいただいた方もいました。
 13時のご詠歌の奉詠より錫杖寺の「大施餓鬼法要」は始まります。普段のご法事などでもご詠歌をお唱えすることは多々ありますが、普段聞くことのできないご詠歌を聞くことができるので、私も座ってゆっくりと聞きたいのですが、なかなかそうもいかず今年も歯がゆい思いでした。
 14時からのご法話は、もう15年くらいになりますが、今年も川口七福神霊場でもおなじみの川口市南町吉祥院のご住職である片野真省先生にお話をいただきました。 今年のお話は「善きことも悪しきことも乗りこえる-仏さまのおはからい」というお題でお話をいただきました。 このご法話に関しては、今年の暑さもものともせず、多くの方がお話を聞きに本堂にあがってくれました。 ちなみに先生のお話によりますと「おはからい」という言葉は仏さまに用いるものだというお話がありました。 同じ内容の言葉では「おぼしめし」という言葉がありますが、これは神様に用いるものというお話もありました。 これは私も初めて聞いたので非常に勉強になりました。
 15時からが「大施餓鬼法要」になりますが、やはり多くの僧侶が一堂に会すると大変豪華な法要となります。 もちろんご先祖さまのご供養として、錫杖寺では春と秋に「彼岸供養」として行ってはおりますが、僧侶の人数が多ければそれだけお経の声の大きさも大きくなりますので、感じるものも違うはずです。 特に今年新盆を迎えるご家庭にとっては、同じお経でも感じ方や伝わり方が違うはずです。少しでもお参りいただいた方の心に響いてくれたら嬉しいです。

 さて、7月といえば語呂合わせになりますが10日が7と10で「納豆の日」とのことです。 ちなみに私も修行中は大変お世話になった食べ物ですが、この納豆は仏教とも関わりがあるのです。
 仏教に関わりがある納豆は、納豆菌の入った粘り気のあるものとは種類が違います。 一般的に寺納豆などと呼ばれ、保存食として用いられていた大豆の発酵製品です。 ではなぜ納豆と呼ばれたかというと、寺の「納所」(なっしょ)という場所で保存されていた豆ということで「納所豆」が変じて「納豆」と言われるようになったのが有名な説として伝えられています。 納豆だけに豆知識です。
 先ほどの「おはからい」と「おぼしめし」の違いではないですが、身近でも改めて発見することがこの年になってもまだまだあるようです。 そう考えると、私が普段何も意識せずに歩いている道も、小さい子どもにとっては好奇心から起こる新発見の連続で冒険だったりするのでしょう。 まもなく寺子屋が控えております。
 「ダメな子」とか、「わるい子」なんて子どもは、ひとりだっていないのです。 もし、そんなレッテルのついた子どもかいるとしたら、それはもう、その子たちをそんなふうに見ることしかできない大人たちの精神か貧しいのだ。
 これは、手塚治虫先生の言葉です。 寺子屋には学年も学校も性別も違う子どもたちが多く集まります。 もちろん友達同士での参加やひとりでの参加もあります。 いろいろな子どもが集まるのです。 その子どもたちが、普段の生活の中で経験できないような生活をするわけですから、我々が当たり前で気にも留めないようなことに興味を持つ子もいるでしょうし、仏教や寺自体を知らない子も中にはいるでしょう。
 しかし、私たちが偏見ではなく正見をもって接することができれば、寺子屋に限ったことではなく、普段の生活もよりよいものとなるはずです。 また、参加してくれる子どもたちにとって楽しい思い出となるはずです。

合掌

(2018.07)
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雨もキライじゃない!

 今年は例年にない早さで6月に梅雨明けとなりました。 梅雨時期はかえって寒いように感じる日もありましたが、梅雨明けの途端に真夏の暑さになりまして、身体が対応できそうにありません。 梅雨明けが早いということは、それだけ夏が長くなるということですから、今から夏の暑さを考えると少し不安になります。
 今月は、そんな暑さに負けずに「2018日光御成道 川口宿 鳩ケ谷宿 夏の陣」が開催されましたので、ご紹介したいと思います。
 このお祭りは今年で第4回目の開催となりますが、秋に川口市の「日光御成道まつり」が開催されることも考慮して、今回より初めて錫杖寺も参加をさせていただきました。 もともとこのお祭りは埼玉高速鉄道株式会社・鳩ケ谷商工会・鳩ケ谷商店街連合会・地蔵院など鳩ケ谷宿が中心に行っていたお祭りで、例年たいへん多くの人が訪れるお祭りでした。
 当日は両日とも猛暑日でしたので、かき氷やアイスを扱うお店がとても人気でした。 しかし、あまりの暑さで私もソフトクリームを手に取った瞬間からすでにとけ始め、久々に子どもの頃のように手をアイスで汚してしまいました。
 ステージの出演者も暑さに負けないパフォーマンスで、会場を盛り上げてくれました。 どのような形であれ、寺院という場所がひとびとの憩いの場や集いの場になるということはありがたいことです。
 さて、今月は梅雨ということもあり雨が多かったので、仏教と雨について少し考えてみたいと思います。 少なからず雨と仏教というのは関係があり、真言宗で考えてみれば、お大師さま(=弘法大師空海)が雨乞いの儀式である「請雨法」を修法したことが伝わっています。 また、現在我々真言宗智山派の流派の祖にあたる小野流の祖と言われる仁海僧正(にんがいそうじょう)は、このお大師さまの「請雨法」を勅命により9回も成功をさせた実績を持ち「雨の仁海」または「雨の僧正」などと呼ばれています。
 この雨に関してですが、少なからず真言宗でも護摩祈祷などで耳にしたことがある経典『観音経』(=『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』)の中の偈文にも説かれています。
 今回は簡単にお話しますが、この『観音経』には、もちろん観音菩薩(観世音菩薩)の功徳が中心に説かれていて、一心に観音菩薩を信じその名をお唱えすれば、たちまちにその功徳を授かることができるとされています。
 少し具体的に話せば、七難(火難・水難・風難・刀杖難・鬼難・枷鎖難・怨賊難)から救済され、三毒(貪・瞋・痴)の煩悩を取り除くことができるとされています。 そのために、我々が求めているもの応じて、観音菩薩は「三十三身」という33の姿に変わり、現世においてご利益を授けてくれると説かれているのがこの『観音経』なのです。ちなみに枷鎖難(かさ)とは、鎖でつながれる=拘束されると考えていただければ結構です。
 では、雨とどのように関係があるかと言えば、この『観音経偈文』の中に「澍甘露法雨滅除煩悩焔」という言葉で教えが説かれており、直訳すれば「甘露の法雨が降り注ぎ、煩悩の焔を消し去る」となります。 つまり、観音菩薩の現世利益のひとつにより、我々の煩悩の炎を甘露の法雨で鎮めてくれるのです。
 この「甘露」という言葉ですが、魚など「甘露煮」という調理方法があるので、身近な言葉だと思います。 この「甘露」に関しては、仏教では不死を得ることができるといわれる甘い飲み物を指しますが、仏の教えそのものを「甘露」とすることがあります。 それは、例えば我々が甘くておいしいお菓子などを食べたとき、幸せな気分になる=満たされた状態になることと同じように、仏の説法を聞くことができれば、我々はすべてにおいて満たされた状態になることに等しいからなのです。
 つまり、この『観音経』の教えに従い、一心に観音菩薩を信じその名をお唱えすれば、私たちの煩悩が観音菩薩の功徳によって取り除かれ、甘露の法雨(=仏さまの教えの雨)により煩悩のない状態(=迷いのない満たされた状態)に導いてくれるということになります。
 よく「恵みの雨」と例えることがありますが、偉大なる「恵みの雨」と考えることができます。
 どうしても雨の日は、晴れの日と比較して気持ちも滅入るものですが、もし雨が降って気持ちが滅入ることがあったならば、少しでも今回のお話を思い出していただければ嬉しく思います。

合掌

(2018.06)
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悟りの世界を探せ!

 4月とは変わり5月は暑い日が多くなりました。 確かに暦の上では初夏ということで、夏になりますが、すでに真夏日のような気温になることもあり、例年以上に夏の暑さが心配になります。 梅雨明け以降のじめじめした夏の暑さと比較すると、それほど同じ気温でも暑く感じることはありませんが、気温が高いということは日差しも強いということになりますから、知らないうちに日焼けして、半日で頭を真っ赤にしてしまいました。
 今月は、1年に1回の「写経会」がありましたのでお話をしたいと思います。 今回もありがたいことに少ない機会の中でも多くの方のご参加をいただきました。 本来であれば第1週目の土曜日に行うことが多いのですが、さすがに世間ではゴールデンウィークですから、そこは次の週に延期するということでご案内をさせていただきました。
 今回もご縁がありまして、私が写経をさせていただくことになりましたので、少しでも私なりのカラーを出したいと思い、写経の意義などを弘法大師空海などの教えも元にお話をさせていただきましたので、ご紹介したいと思います。
 昨年は、同じく写経を行った5月の原稿で簡単に写経の歴史をお話いたしました。 今回は、この写経でも『般若心経』を真言宗の観点から考えてみたいと思います。
 以前にも真言宗の場合は、一般的な『摩訶般若波羅蜜多心経』に「仏説」という言葉を付けて『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』と呼びお唱えをすることをお話させていただきました。
 この『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』と呼びお唱えをするのは、弘法大師空海の著作である『般若心経秘鍵』(はんにゃしんぎょうひけん)の中でこのお経の題目について説いている部分があるのですが、ここに「仏説摩詞般若波羅蛮多心経」とお大師さまが書いてあることに由来します。
 ちなみに『般若心経秘鍵』(はんにゃしんぎょうひけん)とは、簡単に言ってしまえば、お大師さまの『般若心経』に関する解説書・注釈書くらいに考えてください。 今回は、この『般若心経秘鍵』(はんにゃしんぎょうひけん)について少しお話していきたいと思います。
 この『般若心経秘鍵』(はんにゃしんぎょうひけん)には、大綱序にいてとても有名なお大師さまの言葉が書かれています。
 夫れ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如外に非ず。身を棄てて何か求めん。迷悟我れに在り。則ち発心すれば即ち到る。明暗他に非ず。則ち信修すれば忽ちに証す。哀れなる哉、哀れなる哉、長眠の子。苦しい哉、痛ましい哉、狂酔の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。
 そもそも仏の教えは遥か遠いところにあるわけではなく、心の中にあって近いところにある。 仏の悟りは外にあるわけではないので、自分の身を捨ててどこに求めればよいのでしょう。  迷いや悟りは自分自身の心の中にあるものだから、悟りを得たいという心を起こせば、悟りを得ることができる。  明るい世界(=悟り)や暗い世界(=迷い)もほかにあるわけではなく、自分の中にあるものだから信じて努力をすればすぐに現れる。 悟りの世界を知らずにずっと眠っているとはなんと哀れなことだろう。 迷いの世界で酔いしれることはなんと苦しく痛ましくことだろう。 強烈に酔った者は酔っていない者を笑い、深く眠っている者は目覚めたものを嘲る。
 この文章からは、お大師さまの気持ちを少し感じることができると思います。 つまり、悟りも仏の教えも迷いも苦しみもすべて自分の心の中にあるものだとお大師さまは表しているのです。
 また、この『般若心経秘鍵』(はんにゃしんぎょうひけん)からは、この「般若心経」と「写経」の重要性というのも読み取ることができます。それは、大意序に書かれています。
 一一(いちいち)の声字は歴劫の談にも尽きず。一一(いちいち)の名実は塵滴の仏も極めたもうこと無し。 この故に誦持・講供すれば、即ち苦を抜き楽を与え、修習・思惟すれば、即ち道を得、通を起す。甚深の称、誠に宜しく然るべし。
 1つ1つの声字をあり得ないほどの長い時間をかけて論議しても尽きることはなく、1つ1つの名称や意味は、数えきれないほど多くの仏をもってしても極めることはできない。 そのために「般若心経」をお唱えして、講義して、供養すれば苦から離れて安心を得ることができる。 また「般若心経」を修習して思惟すれば、悟りを得て神通力が身につく。 だからこそ、この「般若心経」は意味が深く称えられているのである。
 つまり、普段用いる「般若心経」(玄奘三蔵訳)では262文字という短い経典ですが、その内容は、1文字ですらとてもありがたいものとお大師さまは表しています。 また、お唱えすることや修習すること、つまり「写経」と考えることができますが、これにより大変ありがたい功徳を得ることができるともお大師さまは表しているのです。
 そして、お大師さまは真言に関しても秘蔵真言分においても1文字の重要性を表しています。
 真言は不思議なり観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み即身に法如を證す。
 真言とはとても不思議なもので、仏さまを心に想って真言をお唱えすれば一切の迷いを取り除いてくれる。 真言の1文字には数えきれないほどの理(=教え)を含んでいるので、真言の力によってこの身このまま成仏できる。 つまり即身成仏できる。
 この「写経会」においては『般若心経』を写経しますが、もちろん私は『般若心経』の1字・1字とすべてが仏さまと思って書いてくださいとお願いをしてきます。 なぜならば、お大師さまのこのような教えに基づいているからです。
 もちろん、難しいことを考えなくとも写経というのは大切な行いであり、修行のひとつでもあります。 ただ、同じ写経を行うにしても「なぜ写経がありがたいのか?」ということを理解したうえで写経に臨むことができたら、違った気持ちで仏さまと向き合うこともできるでしょう。 また、お大師さまの教えの通り、ありがたい功徳を得ることができるでしょう。
 しかし、それは対外的なものではなく、常に内面的なものだということを忘れてはいけません。
 夫れ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如外に非ず。身を棄てて何か求めん。
 ぜひこの言葉を忘れることなく、精進したいものです。

合掌

(2018.05)
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供養の誠ささぐるも・・・

 3月の寒さが嘘のように暖かいというよりは暑い日が多く、過ごしやすい4月となりました。 ただ、気温が高かったということは、その分季節の草花が早く咲き始めてしまい、桜の花はもちろん、藤やつつじなども例年より早く咲きだしてしまいました。 植物というのは非常に正直のため、カレンダー通りとはいきませんので、すでに錫杖寺も青々とした新緑で境内が風の気持ちの良い木陰を作ってくれています。
 今月は毎年のことですが、錫杖寺の行事が2つありましたので紹介したいと思います。
 まずは「茶筅供養」です。 今年は天気が心配でしたが、激しい雨に終始見舞われることはなく、決して良い天気とは言えなかったものの、川口茶道会の先生方を中心にご供養をしていただきました。 近年は、天候に関係なく本堂で行っておりますので、椅子もあるためか多くの先生方や参加者に茶筅を納めて供養していただきました。
 納められた茶筅を見ていると、先の欠けているものや変形しているものなど様々で、この何気ない茶筅ひとつにもそれぞれのストーリーがあるのだろうと勝手ながら想像してしまいました。 以前にもお話したことがありますが、まさにお茶の「一期一会」がこの茶筅ひとつひとつに含まれているのだろうと思うと感慨深いものがあります。
 次に「花まつり」です。 今年の花まつりは、関係各位のご協力のもとに「ステージイベント」と「語り」を法要の前後に入れて、多くの方にお参りにきていただけるように考えて実施しました。 ただ、初めての試みということや、日曜日ながら入学式の前日ということもあり、思ったほどの人ではありませんでしたが、それでも例年以上の方にご参拝をいただきました。
 当日の天気は風が少しありましたが、天気には恵まれ、去年と違い外で実施できました。 この「ステージイベント」ですが、出演してくれた子どもたちは可愛らしく、元気に歌って踊って盛り上げてくれました。 また「語り」として、小河知夏さんにいくつかの絵本やお釈迦さまの生涯を綴ったパネルシアターをお話していただきましたが、さすがは専門家でした。
 声優の方とお話するといつも思うのですが、どうしてあれだけ多くの声が出せるのか不思議で仕方ないのです。 いつか寺子屋で使いたいと思っている紙芝居を練習したことがあるのですが、とてもひとりで多くの声は出せず、子どもの声となるとさらにハードルは高く、難しいと思った記憶しかありません。 でも、いつか少しでもできるようになったら披露したいという思いもありますが、だいぶ時間がかかりそうです。

 さて、今月はせっかくなので「茶筅供養」と「花まつり」という言葉より「供養」をキーワードとして少しお話をしたいと思います。 まず、何気なく「供養」という言葉を使いますが、そもそもこの「供養」とはどのようなものか考えてみたいと思います。
 まず「供養」ですが、漢字から考えると「人が共に養う」ということになります。 ただ、仏さまに対して我々が養うという考え方は適当でないかもしれません。 ただ、そこは「共に養う」ということですので、仏さまは我々を日々守ることで養うと考えることができ、我々は仏さまに日々感謝の気持ちをもって施しをすることで養うと考えることができます。 そう考えれば「共に養う」というのは、簡単に理解することができ「供養」というものが少し身近になるでしょう。  錫杖寺の第35世江連政雄大僧正の作ったご詠歌「追善供養和讃」の中にも「供養」という言葉が使われています。
 供養の誠ささぐるも 受くるも共にみ仏の 恵みの光につつまれて きよき集いの尊しや
 供養の誠(誠意)をささげる人も受ける人(ここでは仏さま)も、共に仏さまの恵みの光につつまれて、今ここにいるすべての人や仏さまがみな尊い存在である。 つまり「供養」を行うことそのものが大変尊い行いであり、それを行う人も大変尊い存在であるのです。
 「供養」というのは、必ずしもお経をお唱えしなければならないということはありません。 大切の仏さまの生前の様子を忘れることなく覚えておくことももちろん「供養」だと思います。
 身の丈に合った「供養」というものを探し、ぜひ1日1回でも「供養」の時間を作っていただければ仏さまもきっと喜ぶと思います。

合掌

(2018.04)
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~ハルカゼ~

 3月も終わりに近づくにつれて暖かい日が多くなってきました。 実際は、暖かいという表現よりも暑いという表現の方が適切かもしれませんが、先日までの寒さを思うと暖かいという言葉を使いたい気持ちになります。
 暑さ寒さも彼岸までとは昔からよく言いましたが、このお彼岸のお中日である春分の日は、なんと寒い雨から雪と信じられない天気になりました。 しかし、何年か前には4月にも雪が降りましたので、特別不思議な感じはしませんでしたが、気持ちの安らぐ春は思った通りに来てくれないようです。 このままだと、今年の夏は暑くなりそうで心配です。
 今月は、まず年中行事の「春彼岸会法要」がありましたので、ご紹介したいと思います。 先ほどお話したように、今年の春分の日は冷たい雨から雪へと天気が変わり、春分の日としては珍しい天気でした。 それでもありがたいことに、晴天に比べれば少ないかもしれませんが、多くの人がご参拝に足を運んでくれました。
 この「春彼岸会法要」でお唱えしてもらう「彼岸会和讃」の中に「暑さ寒さも彼岸までよろず程よく偏らぬ調和の相中道の理にふさわしき季節なる」という歌詞があります。 今回のお彼岸はまさにその通りで、よくこの歌詞を考えさせられる春分の日となりました。
 私たちは、寒い日が続くと早く暖かくなってほしいと願い、逆に暑い日が続くと早く涼しくなってほしいと願います。 これは、執着から起こる偏った心と考えることができます。 しかし、偏った天候が続けば、育つ植物も育たなくなり、干ばつなども起こり、自然災害によって私たちの生活は非常に苦しいものになります。
 もちろん、まったく執着をなくすというのは無理な話なので、この場合は偏らず両方を認めればよいと思います。 例えば、雨に降ってほしくないと願っても雨が降り続いた場合、迎えた晴天は、いつもの晴天以上にとてもありがたく感じることができると思います。 今回は雪の春分の日でしたので、その分暖かくなって桜が咲けば、いつも以上に桜の花と暖かい日をありがたく感じることができるでしょう。
 偏らない心を持つことと実践することを上記の歌詞にもありますが「中道」(ちゅうどう)と言い、仏教では非常に大切な教えのひとつとされています。

 さて、話は変わりますが、今月は錫杖寺で『大般若経転読会』が行われました。 ただ『大般若経転読会』と言われてもよく分からい方のほうがほとんどだと思います。
 この『大般若経転読会』の『大般若経』とは、西遊記で知られる玄奘三蔵(三蔵法師)が天竺より持ち帰り翻訳した数あるお経の中のひとつで、600巻からなる経典のことを表します。 このお経をお唱えして、国家安穏はもちろん五穀豊穣や厄除けなどを祈る法要のことを『大般若経転読会』と言います。 ただ、これだけの膨大な量のお経になりますので、すべてをお唱えするのは非常に困難なために「転読」を行います。 この「転読」とは簡単に説明としますと省略してお唱えすることです。 方法としては、経典を掲げてパラパラとめくるようにします。 ちなみに、このお経を「転読」するときに発生する風は「般若の梵風」と言われ、この風にあたることでこのお経の功徳を授かることができると伝えられています。

 「般若の梵風」と先ほどお話をしましたが、この季節は暖かい南風が気持ちの良い季節です。 この季節の風は特に「春風」と言われますが、この時期に「春風」という言葉を使うと有名な高浜虚子の句を思い出す方も多いと思います。
 春風や闘志いだきて丘に立つ
 これから新しい生活を迎える方も多いと思います。 新生活は苦労の連続かもしれませんが、世の中に偏ったものは存在しません。 苦しいことや辛いことにすべて偏ってはいないのです。
 ぜひ「中道」という言葉をしっかりと胸に刻み、ともに強い気持ちで精進しましょう。

合掌

(2018.03)
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115京分の1の確率

 寒い日が続いた2月も終わろうとしています。 ここ関東では、1月のような大雪に見舞われることはありませんでしたが、日本各地に目を向けてみると、大変な雪の災害もありました。 これから3月になり暖かい日も少しずつ増えるとありがたいのですが、今年の春はまだ先のようです。
 今月は、錫杖寺の年中行事「節分会大譲摩供修行」がありましたので紹介したいと思います。 今年は曜日が土曜日ということもあり、例年よりも多くの方のご参拝をいただきました。前日に雪が降ったものの、当日はまったく影響なく、大変よい1日となりました。 土曜日ということを考えると、子どもたちの参拝が少なかったことが残念でしたが、それでも多くの人がお参りにきてくれたことを考えれば、ありがたい限りです。
 恒例となりました豆まきは、今年は副住職のかけ声とともに行いました。 今年は私も副住職のまいた豆にあたることができたので、今年はよいことがある予感がします。

 話は変わりますが、今月は韓国の平昌で行われました冬季オリンピックで世界中が盛り上がったことと思います。 素晴らしいことに、多くの日本選手も活躍をして、多くのメダルを獲得していました。
 私個人としては、埼玉に生まれて埼玉で育ったため、雪になじみがなく、あまり小さいころから冬のスポーツをする機会はなかったのですが、興味を持った競技ももちろんありました。 3月は続いてパラリンピックが行われますが、ここでも多くの日本選手が活躍してくれると思います。
 ちなみに興味を持ったのは競技ももちろんですが、日本選手のインタビューなどの受け答えも非常に興味を持ちました。 それは、メダルを獲得した選手だけでなく、出場した選手がよく感謝の言葉を口にしていることです。
 感謝の気持ちを表す言葉として日本では「ありがとう」という言葉が用いられます。 私もよく「康秀街道」の中で多用していますが、この「ありがとう」という言葉は、とても美しい言葉とされています。 そもそも「ありがとう」は「有り難し」という言葉に由来しますので、意味を考えれば「あることが難しい」=「めったにない」という意味になります。
 実はこの「ありがとう」=「有り難し」は仏教にも深く関係しています。 お釈迦さまの教え『仏説譬喩経』の中に「盲亀浮木」(もうきふぼく)という有名なお話がありますので紹介したいと思います。
 ある時お釈迦さまが弟子の阿難に「人間に生まれたことをどのように思っているか?」と質問しました。 すると阿難は「大変うれしく思っています」と答えました。
 続けてお釈迦さまは「ではどれくらいうれしいのか?」と質問しましたが阿難は答えに困ってしまいました。 するとお釈迦さまは例え話を始めました。
 果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいて、その亀は、100年に1度だけ海面に顔を出します。 その海には1本の丸太が浮いていて、その丸太の真ん中には小さい穴があります。 その丸太は波に揺られて海をさまよっています。 100年に1度だけ海面に顔を出す目の見えない亀が、浮かび上がった拍子に丸太の穴に顔を入れることが可能でしょうか?
 阿難はこの話に驚いて、お釈迦さまに「そんなことは考えられません」と答えました。 しかし、お釈迦さまが「では、絶対にないと言い切れるか?」と念を押してきたので「何億年・何兆年・何京年という年月の間にはあるかもしれませんが、ないといってもよいくらい難しいことです」と答えました。 するとお釈迦さまは「ところが、私たちが人間に生まれることは、その亀が丸太の穴に頭を入れることが有るよりも難しいことなのだ」と阿難に説きました。

 「有り難い」というのはこれほど貴重なこととお釈迦さまは説いています。 そう考えると、まず人として生を受けるのがどれほど難しく、さらに人と人とのご縁がどれほど貴重なものかは考えられないほどの数字になると思います。
 普段の当たり前の生活のなかで、感謝を見つけることは難しいと思います。 しかし、オリンピック選手のように日々の生活の中に感謝の気持ちを持つことができれば、私たちもオリンピック選手と同じレベルのものを共有できるということになります。 メダリストと同じくらい感謝の気持ちを持つことができれば、きっと私たちもメダリストです。
 お釈迦さまの最期の言葉「怠ることなく精進せよ」これを感謝の気持ちをもって実践できれば、きっとひとりひとりがメダリストとなることができます。
 人として生を受けたこと、多くの人とのご縁に感謝して心安らかにお彼岸を迎えましょう。

合掌

(2018.02)
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反省だけなら犬でもできる!

 今年は年明けから寒い日が続きました。 ここ川口市からそれほど遠くないさいたま市でも、史上最低気温となる氷点下9.8度という気温を記録し、暑さには慣れている我々は寒さには弱く、雪国の人からすれば珍しいことではないかもしれませんが「凍てつく」という表現が当てはまるような日もありました。 この寒さもなかなか和らぐこともなく、この冬は寒い日が続くと思うと少し憂鬱な気持ちになります。
 また、20センチを超えるような積雪もあり、錫杖寺ではまだまだ日陰の雪が融けずになかなか困っていますが、それでも信心深い方はご朱印を求めお参りに来山し、厄払いのご祈祷に多くの方が来山します。
 今年も少しでも錫杖寺のことや仏教のことを中心に、できるだけわかりやすくこの「康秀街道」にて伝えていきたいと思いますのでよろしくお願いします。
 今年のお正月はとても寒い日でしたが、それでもありがたいことに多くの方のご参拝をいただきました。 太陽が当たれば非常に暖かいのですが、テントの奥は日が当たらないため、手を温めながら朱印やお札やお守りを書いていました。 こういう寒いときには甘酒が恋しくなるものですが、これは参拝いただいている方もみな同じ気持ちのようで、昨年より全体量を増やしたのですがそれでも午前中に甘酒はなくなってしまいました。

 さて、毎回最初のお話は干支にちなんだお話をしているので、今回も干支の「戌」にならい「犬」に関するお話をしたいと思います。 あまり仏教と犬が結びついている話は多くないのですが、今回も仏教説話集 『ジャータカ』 に納められている代表的なものを紹介したいと思います。
 むかしむかし、ある墓地に多くの野良犬が住んでいて、白色の犬の王がその群れを束ねていました。
 ある時、その国王の愛馬の革の手綱が食べられてしまうという事件が起こってしまいました。 この国王はかんしゃく持ちであったので、すぐに犯人捜しを始めたところ多くの犬の足跡が見つかりました。
 家来たちは国王に 「犯人はどうやら犬のようです、野艮犬の仕業でしょう」 と報告したところ、国王は直ちに 「ならばすべての野艮犬を殺してしまえ」 と命令を出しました。
 野良犬たちは国王の命令により無差別に殺されていきました。 しかし、犬の王も黙ってそれを見過ごすわけにはいきません。 犬の王は仲間たちに問いただしました。 しかし、当然のことながら城の中は警備も厳重で、とても忍び込めるような状況ではありません。 仲間たちは犬の王に 「城内の国王の犬が犯人だろう」 と伝えました。
 仲間の話を信じた犬の王はひとりで城へ乗り込み、国王と直接話すこととなりました。
 そこで犬の王は 「なぜ我々を殺そうとするのですか?」 と尋ねたところ、国王は 「わたしの愛馬の手耶を食ったからだ。 だからすべての大を殺せと命じた」 と答えました。
 すかさず犬の王は 「それは国の全ての犬ですか?」 と尋ねたところ、国王は 「城内の犬は別だ」 と答えました。 犬の王は続けて 「それはおかしい話です。国王はご自分の愛馬や愛犬がかわいいばかりに、王としての道を見失っています。一国の主たるもの、物事を判断するには、つりあった天秤のようにどちらにも傾かない公平さがなければなりません。血統の正しい王の犬はそれだけで罰を受けることなく、野良犬は殺される。血統や毛並みだけで罰を受けずに弱いものだけが殺される。果たしてこれが国王としての判断なのですか?」 と強く訴えました。
 しかしこれを聞いた国王も黙ってはいられません。 犬の王に 「では誰が犯人なのだ」 と強く尋ねました。 犬の王は間髪入れずに 「国王の愛犬です」 と答えました。 すると国王もただちに 「証拠でもあるのか」 と声を荒げました。 しかし、犬の王は冷静に 「では証拠をお見せしますので、国王の愛犬を連れてきてください」 とお願いしました。 そして 「バターと薬草を食べさせてください」 と国王にお願いしました。
 犬の王に言われるがままに国王の愛犬にバターと薬草を食べさせたところ、国王の愛犬は革を大量に吐き出しました。 その革はなんと愛馬の手綱だったのです。
 これにより国王は改心して、野良犬も同等に扱うことを決めました。 ちなみにこの犬の王は釈尊でありました。

 人間どうしても自分の都合のよい方向に物事を考えたくなるものです。 しかしながら、それが許されるということはありません。 まして、国王のように国を治める立場となればなおさらです。
 今年は「戌」ですが、この「戌」の守り本尊さまは「阿弥陀如来」です。 この「阿弥陀如来」は一切差別をすることなくすべてを平等に扱います。 もちろん、六道輪廻の地獄から浄土にいるすべてのものを平等に扱い、手を差し伸べてくれる仏さまなのです。
 もし昨年の自分の行動を振り返り、この話のように自分の思い込みや自分勝手な行動をしてしまったならば、今年一年は反省して精進すればきっと「阿弥陀如来」が力になってくれます。 共に一年間しっかりと精進していきましょう。

合掌

(2018.01)
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新年のごあいさつ

 まず初めに、謹んで新しい年を迎えることができましたことを心よりお慶び申し上げます。 今年も1年の無事を祈り、錫杖寺では僧侶ならびに関係者が一丸となってご本尊延命地蔵菩薩さまにご祈願をしております。 無事に新年を迎えられたことを慶び、今年1年が昨年よりもよい1年となるようにみなさまもお祈りください。
 今年は戌年になります。 戌=犬とうことで、イメージを考えますと昔ばなし「桃太郎」にも登場する十二支の中では大変親しみのある動物だと思います。
 犬というと「ワン」という鳴き声を思い浮かべると思いますが、この犬の「ワン」という鳴き声にちなんで、今年は目標を設定して「ナンバーワン」(=No.1)を目指してみるのもよいでしょう。
 錫杖寺にも時々犬の散歩コースとしてお参りに来てくれる方がいます。犬が人間にとってよきパートナーであるように、錫杖寺もみなさまにとってよきパートナーでいられるよう、今年も努めてまいります。
 本年もどうぞよろしくお願いします。

合掌

(2018.元旦)
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