錫杖寺のご紹介

錫杖寺について


住職ご挨拶

 この度は、錫杖寺ウェブサイトにお運び頂きありがとうございます。
 当山は江戸幕府開府以来、徳川家との関連は深く、御朱印寺領二十石を賜り、歴代将軍による日光社参の際の休憩所と定められ、由緒と格式をもつ寺院として開創以来法灯を絶やすことなく燈し続けております。
 先代・俊則大和尚はかつての七堂伽藍の再建として、昭和五十年(1975)十月に大本堂、客殿の建立。鐘楼堂、地蔵堂、山門(御成門)などを移設改築し落慶法要を奉修。さらに昭和五十八年(1983)には、本坊、書院、庫裡などを新築。梵鐘の新鋳、表門の新設、築地塀の増設、境内通路、墓地通路の敷地整備をし寺門興隆に尽力されました。



 現代は、パソコンの普及により、瞬時に情報の提供、共有ができます。
 以前、川口は職人中心の町で昔ながらの定住者が大半を占めていたが、近年では都内勤めの核家族など、新住民が増えております。昔からお寺は教化の場でもありますので、閉鎖的になるのではなく時代に対応した地域の人たちのふれあいの場となるような活気あふれるお寺でありたいと思います。
 このウェブサイトを通じて少しでも多くの方々と法縁を結べたらと思います。

合掌

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御詠歌

錫杖寺には、設立60年の「密厳流遍照講錫杖寺支部」があります。
 ご一緒に、楽しくご詠歌をお唱えしてみませんか?
 きっと新しい人生が開けます。
 どなたでもお唱えすることができます。
★随時に講員を募集しております!お友達をお誘いの上、ご一緒に御詠歌をお唱えしましょう。


<密厳流遍照講錫杖寺支部の歴史>
 昭和23年12月 設立
 平成13年10月 錫杖寺御詠歌歌碑建之
 平成20年11月 講員の皆様より「かわぐち地蔵」建之 支部設立60周年記念事業

<御詠歌講行事>
 稽古は、 月3回月曜日午後1時30分〜約2時間。
  1月、 初稽古・新年祝祷会(新年会)。
  2月15日前、 涅槃会(本堂の涅槃図の前で奉詠)。
  3月20日、 春彼岸会法要出仕。
  4月8日、 花まつり法要出仕。
  5月、  総会。
  7月24日、 大施餓鬼会みたま供養。
 ★その他各種検定会や講習会など参加しています。
 (中央講習会、県仏奉詠大会、埼玉第一教区連合会検定と講習会、遍照講講習会、檀信徒教化推進会議など)

<宝珠山 錫杖寺の御詠歌 詞:江連政雄(錫杖寺第35世)>

長き夜を 六つの巷に 迷ひぬる 夢をしさます 錫杖の寺(第一番)
ありがたや 子をかわぐちの 地蔵尊 親と頼まむ この世後の世(第二番)



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錫杖寺と庶民信仰


本尊・地蔵菩薩

錫杖寺に安置されている御本尊・地蔵菩薩は、行基菩薩の作と伝えられています。
『〜宝聚山地蔵院錫杖寺〜本尊 地蔵尊 行基作〜』(江戸志より)
天空を象徴する虚空蔵菩薩に対し、大地の恵みを神格化した菩薩が地蔵菩薩です。釈迦が入滅し弥勒仏が下生するまでの無仏時代に、衆生済度を受持つ菩薩として奈良時代の頃から人々の厚い信仰が寄せられました。
頭を丸め身に衲衣・袈裟をまとう僧形で、左手に宝珠、右手に錫杖をもつ立像が多く、死者を解脱の道へ導く姿を顕わします。

錫杖寺の御本尊・地蔵菩薩は、三宝光輪と瓔路とを具し、総金色、玉眼の延命地蔵尊で、内陣正面宮殿の内に安置されています。
略縁起によると、寛正元年(1460)宥鎮大和尚が当山を中興した折に安置された尊像で、霊験の顕かなことで広く知られ、人々は遠近を問わず参詣に訪れたと記されています。

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地蔵堂

錫杖寺の地蔵堂は初め門前にありました。しかし江戸期に当山が日光参詣の御休息所となったことから、門前を広くすることになり氷川神社(川口神社)の傍らに移され、明治の神仏分離令が発布された年に再び境内に移築されました。この頃は小堂でしたが、明治十八年(1885)七月、六名の信徒の信施によって再建され、昭和四十八年(1973)三度現在地に移されました。

地蔵堂内には厨子に納められた江戸期以前の開眼と推定される半跏の延命地蔵尊、石彫の坐姿地蔵尊をはじめ諸尊像が安置されています。
「延命地蔵略縁起」によると
『明治十四年十月十九日、堂前で遊んでいた十四才の源次郎という男の子が、突然賽銭箱の上に懸かる鰐口の網に首をかけ、まるで縊首するかのように苦しみ始めた。近くにいた人が驚き、急いでひきおろしたので命だけは助かった。なぜこういうことになったが問いただしてみると、お堂の前に来たところ急に気が遠くなってあとは何もおぼえていないということであった。おそらくは浄財を盗ろうとしたのをお地蔵さまが懲らしめたのだろう。その後、その妹が大病にかかった時、父親と共にお堂を掃除するなど一心に奉仕したところ、たちまち快癒した』
と記しています。
江戸府内外に起こった事柄を年表に記した「武江年表」によると、錫杖寺のご本尊はしばしば開帳され、門前市をなす賑わいであったと記されています。
当山に所蔵される『地蔵祭画幅』に往年の面影を偲ぶことができます。

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青山地蔵尊

参道左手の格子扉の小堂に鋳造の地蔵尊像が安置されています。一見したところ胸像らしくもあり、また見ようによっては坐姿の地蔵尊に見える尊像です。
川口市で長年鋳造を業としてきた青山某の遺言によって似顔そのままを鋳造して安置したことから、俗に青山地蔵と呼ばれ町の人々から除災延命、商売繁盛の霊験顕かな地蔵尊として信仰され、今も供花が絶えません。

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八面塔六地蔵尊

地蔵堂側の植込の中に有蓋八面塔があります。六面には六地蔵尊、二面には金剛界、胎蔵界の大日如来が浮彫りにされています。
六面塔六地蔵尊はよく見かけますが、六地蔵と金胎両大日如来が共に彫られている八面塔はあまり例をみません。
六地蔵尊は、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のどこにいても救済の手を差し伸べてくれる地蔵尊です。人間は死ぬと六道の何れかに行くといわれ、六道それぞれにあって私達を導いてくださるわけです。

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阿弥陀如来

無量寿経によると阿弥陀如来も釈迦と同じくインドの王族の太子で出家ののちに法蔵菩薩となりました。四十八の大願をたて、その大願を成就して仏となり、西方浄土の教主となったといわれています。
四十八願のうち、第十八願の「念仏往生願」はもっとも大切なもので「弥陀の本願」といいます。念仏を行うものは必ず往生させるという誓願なのです。
錫杖寺の地蔵堂内に安置される阿弥陀如来像は上体をやや前傾した立像で、上品下生の来迎印を結んでいます。そのお顔は慈愛に満ち、思わず掌を合わせてしまいます。

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天神社

天神とは天満宮、つまり菅原道真公を祀った神社です。
鎌倉時代には正直者を守り、邪悪をころす神とされていましたが、室町時代以降になると文学諸芸の守護神として厚い尊崇が寄せられました。
錫杖寺の天神社の御神体は道真公自作の御神体で、昔、天神社の傍らにあった梅の木の根元から掘り出されたと伝えられています。

『〜身体は菅公の自作なり。何の頃か旧地にありし梅樹の根より穿出せりと云』(「新編武蔵風土記稿」)
受験をひかえた学生や親達が一心に祈願する姿をよく見かけます。

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十三仏

仏教で人間は三界(欲界、色界、無色界)と六道(「八面塔六地蔵尊」参照)に生死を繰り返す(輪廻転生)と考えられ、死者は冥界(仏の世界)で順次十人の王の裁判を受け、ゆくべき世界が定まるとされています。
やがて十王には本地仏が定められ、十三仏が成立して人々の救済にあたるとされるようになりました。

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武州川口七福神巡り

仁王経のなかに「七難即滅七福即生」という言葉があります。仁王経に説かれる教えを信ずれば、この世の七つの大難はたちどころに払われて、七つの福がやってくるという意味です。
室町時代末期頃から民間信仰として七種の福神が考えられ、福徳長寿を祈念するようになったといわれています。
「武州川口七福神巡り」は川口市内の七福神を安置する旧刹を巡拝するもので、錫杖寺には福禄寿尊が安置されています。
福禄寿とは、福は幸運、禄は安定生活、寿は長寿をあらわすといわれ、中国の道教でいう「人々の最高理想」をあわしています。福・禄・寿の三つの理想を体現した神ということです。
像容は、丈が低くて頭が長く、白髪童顔、経巻をつけた杖を右手に鶴を従えているものが多く、神仙の姿をそのまま現したといわれていますが、錫杖寺に安置される尊像は右手に経巻をもち、左手に杖を持つ像容です。

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庚申供養塔

庚申の信仰はもと道教の説で、人の体内にいる三尸の虫が庚申の夜、天に昇ってその人の罪過を天命に告げるため生命も縮められる・・・と伝えられ、庚申の夜は眠らず言行を慎み、健康長寿を祈念するという信仰になりました。
錫杖寺には三基の庚申供養塔が設立されています。そのうちの二基には悪疫を調伏する青面金剛や邪鬼、謹慎態度を示す三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)が浮彫りされています。享保十年(1725)、文政二年(1819)に造立されました。他一基の一猿のみ浮彫りにされている供養塔は、刻面が磨滅しているため造立年代は不明ですが、江戸中期のものと思われ、いずれも周辺地域の講中によって造立されたものです。

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錫杖寺の所縁


行基菩薩

錫杖寺の濫觴となる草庵を結んだ行基は、天智七年(668)和泉国大鳥郡峰田(大阪府)に生まれました。
十五歳で出家し法相教学を学び、二四歳のとき徳光禅師の下で受戒しました。文武二年(698)薬師寺に移ります。この間、山林修業にも大いに意を注いだといわれています。
やがて郷里に帰った行基は、民衆教化に努める傍ら、布施屋の設置、池溝の開発、架橋などの社会事業に従事しました。行基のこのような活動にたいして人々は、行基菩薩と称賛しましたが、政府は僧尼令違反として弾圧しました。
しかし盧舎那仏(東大寺大仏)造立の詔が発せられると、聖武天皇に敬重され弟子らを率いて積極的に協力し。天平十七年(745)日本初の大僧正に任命されました。
行基は文殊菩薩の化身ともいわれ、天平二十一年(749)二月二日、八十二歳で遷化しました。

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関東十一談林

錫杖寺は関東十一談林のひとつとして、全国から集められた多くの学僧の育成にあたりました。
談林とは談林所であり、鎌倉時代の談議所を起源とするといわれています。談林は常法談林と談林格があり、さらに古談林と新談林に区別されます。古談林は中世以来の談林、新談林は智積院・小池坊両能化より免許を受けた談林をいい、享保年中(1716〜35)以降増加しました。また談林格とは一代談林、常法談林とは永代談林のことで、錫杖寺は古談林、常法談林として、真言宗門隆昌の重要な一翼を担っていました。

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願行上人

錫杖寺の中興開山・願行上人は、正しくは憲靜大和尚とお呼びし、後に宗燈律師の号を賜りますが、号を圓満、字を願行と称したことから、一般的には願行上人の名で親しまれています。
「本朝両史」によると『〜初め東山泉通寺に住し、また東寺遍照心院に在り、ついで金剛三味院に住す。曽て諸山を経歴して真言宗を拡張し、常に不動尊を修念してまたよくその像を描いた。筆法宅間、住吉に似て頗る神妙を極めたといはる』と記しており、画僧としても知られていたことがわかります。
願行上人は顕密浄律の諸宗に兼通し、なかでも三宝院流の事相を究め、その一流を願行方と称します。

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宥鎮大和尚

錫杖寺を中心として、周辺地域に強力な線を張り、関東における真言宗隆昌に尽力したのが、再中興の祖と称される宥鎮大和尚です。
「新編武蔵風土記稿」によると錫杖寺は『古へ願行上人の結びし庵室なりしを僧宥鎮其後法脈を継ぎて〜』開山したと記されていますが、ここにいう法脈とは願行上人の弟子にあたる伊豆流・宥祥の流れを指すと推察されます。伊藤宏見氏は「印融法印の研究」のなかで、『宥鎮は印融の師三会寺賢継の出身地の南多摩の高勝寺(坂浜)の第七世ではないかと思われる』と述べています
延徳三年(1491)しばらく錫杖寺に止宿して「諸尊表白抄」等を著し、談林を起こし宗風宣揚に尽力した印融法印は、宥鎮大和尚とは同年代の僧であり、この両僧の間には当然繋がりがあったとみるべきでしょう。「印融法印の研究」には「宥鎮は『印融流のこの地方での教団組者』であったかもしれない」と記されています。

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印融法印

錫杖寺は「宗祖弘法大師の再来」と尊崇された印融法印ゆかりの地でもあります。
印融法印は、関東各地の真言宗寺院の復興に努めるとともに、密教教学の興隆にも尽力したことでも知られ多くの著作が残されており、『諸尊表日抄』は錫杖寺で著されました。
奥書に「延徳三年辛亥四月一日、於武州足立郡河口錫杖寺において、求法弟子の所望によってこれを抄す。沙門印融」と記されています。(原稿は漢文)
弟子らに求められてこの『諸尊表日抄』が著されたとすると、この地の弟子達は水準の高い学僧の集団であったことがわかります。この頃から印融法印の著作は、小規模なものから次第に重厚な教祖の輪書に移って行きます。学徳とともに円熟期に向かう転換期に錫杖寺での止宿があるわけです。

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院室兼帯同院

錫杖寺は院室兼帯同院としても知られています。
平安時代に仁和寺などで出家した皇族を院家衆といい、その法脈を継承した住坊を院家といいます。さらに仁和寺、大覚寺、勧修寺、醍醐寺は院家の外に貴族出身の学侶の坊舎をおいて一山伽藍を成立しました。この坊舎を院室といいます。
近世初期の頃になると有住院家・院室は少なく、その多くは名跡のみとなっていました、これらの院家・院室の外様住居として法脈を継承したのが院室兼帯です。院室兼帯には、僧に与えられた一代院室兼帯と、寺格である永代院室兼帯に分けられ、錫杖寺は永代院室兼帯寺院で、「十六菊」の紋を与えられました。

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関東七ヶ寺

錫杖寺は真言宗(新義)関東七ヶ寺のひとつに数えられました。
三宝寺(練馬区)、宝仙寺(中野区)、総持寺(足立区)、三学院(蕨市)、明星院(桶川市)、一乗院(熊谷市)。
いずれも旧刹で宗門隆昌に尽力しました。「川口歴史読本」(但馬太良著)には『〜朱印状のある寺のなかでも、その頃、真言宗では錫杖寺が(浦和市の玉蔵院、蕨市の三学院とともに)、臨済宗では長徳寺が(新座市の平林寺、久喜町の甘楽院とともに)県内の寺のなかでは格式が高く、また幕府より特別の待遇を受けていました〜』と記されています。

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大奥御年寄・瀧山

錫杖寺には、江戸城大奥最後の御年寄であった瀧山が葬られています。
文政六年(1823)十六歳で大奥へ上がり、忠実な勤めぶりと才幹をみとめられ、ついに御年寄に昇進しました。
御年寄とは大奥の総取締役で、「表」の老中に匹敵する大奥第一の重役をいいます。瀧山は十三代将軍・家定が世子(世嗣)の頃から、西の丸の御年寄をつとめ、家定が将軍位を嗣ぐとそのまま家定に従って本丸に移って御年寄となり、以来十四代・家茂、十五代・慶喜の三代にわたって御年寄をつとめました。
十四代将軍継嗣問題で、紀州の徳川慶福を擁立する「南紀派」と、一橋慶喜を擁立する「一橋派」が対立し、幕府の重臣、有力諸侯はもちろん、江戸城大奥にも激しい対立と抗争がおこりました。瀧山はこの対立抗争にあたって、慶喜の擁立を阻止したことで知られています。
結果として十五代を慶喜が嗣ぐわけですが、瀧山の大奥での取締りぶりはあくまでも筋を通す厳正なものであったと伝えられています。
慶喜によって大政が奉還され、江戸城が明け渡されたのは、慶応四年(1868)四月一日のことです。瀧山は家定、家茂の妻や生母を立退かせ、ついで総勢およそ二百五十人といわれる奥女中たちに、年功によってそれぞれ拝領物などを与えて退出させました。江戸城大奥の締めくくりを瀧山が執り行ったわけです。
瀧山は暫く、大奥の残務整理にあたりましたが、後に自分に仕えていた局の生家を頼って川口市内朝日町に落ち着き、明治九年(1876)一月十四日七十一歳で歿し、錫杖寺に葬られました。法名「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」

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関東八十八ヵ所霊場

錫杖寺は、平成7年に発足した「関東関東八十八ヵ所霊場」の第76番(涅槃の霊場)に指定されております。
四国には真言宗の開祖弘法大師空海ゆかりのお寺「四国八十八ヵ所霊場」があります。
「平成の大師の道」は、一都六県の真言宗寺院の心ある住職によって八十八霊場開創が発願され、特別霊場3ヵ寺を加えて「関東八十八ヵ所霊場会」として発足しました。
その後平成9年には特別霊場4ヵ寺が参加し、一層充実し遍路の受入も日々改善され、ますます巡り易くなりました。

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